涼宮ハルヒのユリイカの憂鬱

tenshinokuma2011-06-22

 ということで、ユリイカの臨時増刊号を読んでいるわけだが、どうも居心地が悪い。
 というか、しっくりこない。いや、けっこう楽しんで読んでいるし、いろいろと気づかされることもたくさんあるんだけど。でもね。
 つい、涼宮ハルヒをオヤジが語る本なんじゃないかっていうふうに思ってしまうわけだが。
 「涼宮ハルヒ」シリーズって、確かによくできていると思う。SFやミステリーのいろいろな要素を詰め込んでいるし、キャラクターも計算されてうまく配置されている。さらに、メディアミックスとでもいうのかな。谷川流の文体もいいけど、いとうのいぢのイラストも、もうこれしかないっていうくらい。アニメも成功したし、そこでは平野綾という声優があまりにもはまりすぎた。ハレハレユカイのダンスも流行ったし。
 でも、この成功を根本で支えていたものって、そんなとってつけたものじゃないと思う。そこのところが、あまり語られていないんじゃないか、というのが、しっくりこない理由だ。
 たまたま、村上春樹のインタビュー集を並行して読んでいたから、言うわけじゃないけど、村上の「1Q84」っていうのは、いろいろナゾを残してくれて、それは示されるものも関係性もなんだけど、そういうものをつい語りたくなるような作品だった。同じことは、「新世紀エヴァンゲリオン」にも言えることだ。
 でも、「涼宮ハルヒ」シリーズはそうじゃない。いろいろとナゾを残してくれるけど、それは、「まあ、この次の作品あたりでは、わかっちゃうんですけどね」みたいな感じがしているし、実際に、作品はそういう形で書き進められている。ということは、そういうところで語るというものではないような気がするのだ。
 だって、「1Q84」のふかえりって、綾波だよねって言って、話題にすることはできるけど、長門綾波だって、自明すぎる。というか、そもそも涼宮ハルヒはアスカというのがあって、シンジは旧作の映画で最後にアスカを選んだように、みんなアスカが好きだと仮定して、こうなりました、っていうはずなのに、実はみんなやっぱり綾波が好きだから、気付いてみると、「涼宮ハルヒの消失」がエポックメーキングな作品になっちゃいましたね、みたいな、そんなこと、みんなわかってるから、語るまでもないでしょ、みたいなことなんじゃないか。
 言い方を変えると、あまり異論があるような議論ってできないっていうこと。
 そういう中で、主人公のキョンはシンジみたいなヘタレでは、実はなかったということが重要だったりもする。という指摘は、あったな。
 ぼく自身、「涼宮ハルヒ」シリーズで一番気になるキャラが、鶴屋さんだから、というわけじゃないのだけれども、「涼宮ハルヒの驚愕」において、なるほどなって思ったのが、鶴屋さんキョンに対する評価。キョンは、人を受け入れる能力があるということ。それは受動的だけどポジティブな能力だと思う。ヘタレどころか、そのためにけっこう活躍もするし、つらいめにもあう。それに、そもそも、よく考えるとハルヒも有希もみくるも、ついでに佐々木もけっこうイタい女性だし、それを受け入れるっていうのは、並じゃないよな、とも思う。
 「涼宮ハルヒ」シリーズを支えている、プリミティブなものっていうのは、このキョンの受容力なんじゃないかと思うのだ。そして、読者はその能力に自分を重ねることで、その世界を楽しんでいるのではないかと思うのだ。
 ヘタレなのに、なぜか女の子にもてる、っていうストーリーはいやになるほどあるし、まあ、それはそれでいいんだけど、そこにきちんと理由づけがされているっていうことに、谷川は自覚的なんだろうな。
 でも、そんなことを言ってしまっても、あまり芸がないし、どうしたって、この根本を取り囲む、さまざまなモノを論じたくなってしまう。それが、ユリイカにおいて、「涼宮ハルヒをオヤジが語る」ものにしてしまっているのではないか、ということなのではないだろうか。
 もちろん、だからといって、谷川の自覚的なキョンの設定だけで、この作品が成功したとは思えないし、とりわけ長編の作品には、何か中途半端なSFを読まされている気がしないでもない。「驚愕」にしても、けっこう楽しんだけど、あれだけやっておいて、それだけ?っていうのもある。そうなんだけどね。
 ということで、ぼくは鶴屋さんに想いを寄せる国木田くんにはがんばってほしいと思うのであった。