こちらつつじヶ丘野川どんぶらこ通信961

 こんばんは。

 梅雨が明けました。

 

 いきなり危険な暑さの毎日ですね。

 

 まずは告知です。

 トーキングヘッズ叢書No.99「イノセント・サバイバー」が7月30日ごろ、書店に並びます。今回も寄稿させていただきました。ということで、ぜひともお買い求めいただけますよう、よろしくおねがいいたします。

 今回は異世界転生について書きました。

 

 今回は本の話をいろいろ。暑くて山に行ってないし、釣りも行ってないです。

 

 まずは、藤高和輝の「バトラー入門」(ちくま新書)から。

 ジュディス・バトラーという哲学者の入門書ということなのだけれど、実質的には代表的な著作「ジェンダー・トラブル」の入門書、なんならファンブック。

 この本は、クイア理論の代表的な著作ということになっているけれど、執筆された背景からていねいに解説されている。

 「ジェンダー・トラブル」はクイア理論の代表的著作とされているけれど、決してその前がなかったわけではない。レズビアンフェミニズムがその前にあるのだけれど、よくレズビアンには男役(ブッチ)と女役(フェム)がいて、それが男女のジェンダーを模倣しているとか批判されたりもしていた。でもブッチと思われた人がベッドでは受ける側だったりとかする。そもそも、個人個人のセクシュアリティジェンダーをあてはめるのっておかしくないかな、とか。そうじゃなく、先に自分のジェンダーが、自分だけのジェンダーがあるんじゃないか、とか、そんな感じ。

 バトラーはこうして、ジェンダーを攪乱させていく。というのが、「ジェンダー・トラブル」。

 バトラー以前の第二波フェミニズムは女性の権利を回復させようとしてきたけれど、クイア理論はその先に、自分だけのセクシュアリティを取り戻そうとしてきたものになっていく。だからLGBTQについても肯定的なわけだ。

 

 ところが一部のフェミニストは、トランスを排除しようとする。トランス排除ラディカルフェミニスト(TERF)とよばれている。トランス女性が女湯に入ってきたらどうするんだ、とか、そんなことが話題になっている。

 例えば、フェミニスト側の作家だと思われていた、笙野頼子森奈津子、伊東麻紀といった人たちがそれにあたる。笙野はかなりわかりやすい。トランス女性が女湯に入ることで、女の居場所がなくなる、という。そして、トランス批判のもう一方にいるのが超保守派の人たち。政治家でいえば、山谷えり子高市早苗といった人たち。笙野は選挙で自民党を支持するようになり、山谷に投票する。

 どうしてそうなっちゃうのか、というのもあるんだけど。

 

 藤高和輝は「ノット・ライク・ディス」(以文社)で、TERFの問題を取り上げている。具体的には、千田有紀に対する批判ということになる。

 フェミニズム研究者である千田はTERFではないものの、現代思想フェミニズム特集で書いた短い論文が批判されている。千田は、トランスの存在に対し、男女の性別の線を引き直すことを提案している。でも、そもそも線を引くことが問題なのだ。そしてそのことを千田は理解していない、ということになる。

 LGBTQのことというのは、というかトランスは線を引ける存在ではないから。レズビアンでも一様ではないように。

 

 最近の話題でいくと、最高裁性別適合手術を受けていないトランス女性の戸籍上の性別変更を認めないことは違憲だという判断をした。そもそも、手術(という苦痛)なしに、自分がアイデンティティを得る性別になれないとしたら、それは不平等というものだということだ。

 ホルモンを摂取して女性のような身体つきになって、ただちんこは残っている、というので良くはないのか、ということなのだけれど。

 おたく系の言葉でいえば、男の娘ですか。でも、それが自分のジェンダーであれば、それでいいんじゃないか、というのがバトラーの考えでもあるわけ。

 それは、赤坂真理が「安全に狂う方法」(医学書院)で紹介している、倉田めばもそうですね。

 木尾士目の「Spotted Flower」(白泉社)を思い出しますね。第7巻も読みました。

 

 とはいえ、それでも線を引かなきゃいけないこともあります。まあ、銭湯もそうなんですけど。

 例として、パリオリンピックの女子ボクシングのアルジェリアの選手があります。テストステロン値が高いので、男性じゃないかということ。でも、身体は女性だし、だから女性として育ってきた。

 確かに、過去にもテストステロンの値がたかい女性アスリートが排除されることがあった。

 では、スポーツの場合は、テストステロンで線を引くのか。でも、同じホルモンでも成長ホルモンが問題になることはない。身長が高いバスケット選手はずるい、とは誰も言わない。

 その一方で、体重で線を引くことはめずらしくない。ボクシングだけではなく、レスリング、柔道、重量挙げ。

 これはけっこうやっかいなことかもしれません。

 

 バトラーを日本に積極的に紹介してきたのが、竹村和子。あまりにも早く亡くなってしまったのだけれど、竹村の「フェミニズム」が文庫化された(岩波現代文庫)。入門書というか、フェミニズムの思想の広がりを紹介する本なのだけれど、第三波以降の、クイア理論を専門とする竹村ゆえに、広い範囲をカバーしていて、それはそれでおすすめなのだけれど、注目は岡野八代が解説を書いていること。これ、重要。

 岡野は政治学者で、ケアが専門。どちらかといえば、第二波フェミニズムに足掛かりをもっていて、ケアが伝統的に女性というジェンダーに割り振られてきたことを問題視している。社会全体がケアを担うようになれば、政治が変わるはず。

 岡野の「ケアの倫理」(岩波新書)は、このあたりがとても分かりやすく書かれていて、必読の本、くらいに思っているのだけれども。でも、そうした岡野だからこそ、竹村の著作の解説というのは、本人も意外だったとしている。

 ここで念のため、言っておくと、第二波フェミニズムが古い、というわけではない。もちろん、いろいろな批判がなされて、進んできたものではあるけれど、現実の問題として、いまだに女性の権利というか、社会的な差別は大きな問題であるし、だから岡野が言うケアという側面から見ていくことも重要。

 でも、岡野はまさに、フェミニズムを社会という外側の文脈でしか見てこなかったし、個人の、身体の方に目を向けてこなかった。そのことを反省しているという。

 岡野にとっては、竹村が示していたのは未来のフェミニズムということになる。そうなのだと思う。社会におけるケア、というだけではなく、個人個人の身体とケアとの関係ということも、語られるようになるかもしれない。

 

 それにしても、第二波フェミニズムは過去のものではない。NHKの朝ドラの「虎に翼」が話題になるように。

 そして、「女性」が社会的差別がいまだになされるなかで、トランス差別の排除の方が強く訴えられていると感じるとしたら、それこそがTERFがうまれる原因なのではないか。そんな風にも思う。

 でも、竹村や藤高、あるいはそれこそバトラーが示すように、自分自身のジェンダーを取り戻すことが必要なのだとしたら、それはもう少し第二波フェミニズムが抱えていた問題も取り除かれるのだろうと思う。

 

 そうそう、赤坂真理は「愛と性と存在のはなし」(NHK出版)では、自身を性別不適合者だとしています。ストレートでシスジェンダーだけれども、でも適合していない。

 赤坂は、最近の著作では、若い頃の小説で示していた痛みを理論化しようとしているのだけれど、それはここでいえば、シスジェンダーであっても社会的に押し付けられているジェンダーには違和感があったということなのだろう。

 母親に対して、「男の子に生まれて欲しかった」と言われたところで、そこで言う男の子というのは単純に男性という意味ではなく、ある部分で男性であり、多くの部分で女性であるようなものなのだと思う。

 赤坂が紹介した倉田めばがトランス女性であるにもかかわらず、性別適合手術を受けず、むしろそれが自分らしいと受け入れている、そういったジェンダーというのは線が引けないものであり、その中から、自分であることなのだろうと思う。

 

 でも、さらに言えば、まどかしとね著「サイボーグ魔女宣言」みたいに、というかバトラーの盟友でもあるダナ・ハラウェイはそもそも現代人はサイボーグなのだから、と言ってしまえば、ジェンダーもゆらいでいく。

 ただし、サイボーグになればジェンダーが選べるというわけではない。藤高は、TERFが言う「ジェンダーは自分で選べてしまうもの」なのではなく、自分のものであるし、現代人はすでにサイボーグなのだから、それも選んだものなのではなく、自分なのだと思う。

 

 なんか、いろいろ読んだ本を紹介しようと思ったのですが、紹介しきれないですね。まあ、またそのうち。