こちら葛飾区水元公園前933

こんばんは

 

まず、業務連絡から。

トーキングヘッズ叢書 No.91「夜、来たるもの」が発売されました。すでに書店の店頭に並んでいます。夜といえば、何を思い浮かべるかは様々ですが。ということで、今回もお買い求めのほど、よろしくお願いいたします。

 

ついでですが、「フェリシア」の40周年記念号もまだ在庫あります。まだ、ご購入されていないかたはぜひ。

 

あと、8月8日発売の週刊エコノミストにも記事を書きました。FIT後の太陽光発電事業についてです。まあ、こちらは立ち読みでもしてやってください。

 

そんなわけで、7月最後の土曜日、トレッキングに行きました。今回はゆるい山、ということで、南高尾を歩きました。暑いので、無理をしない、というコンセプトです。

そう言いつつ、当初の計画では、高尾駅から草戸山経由で大垂水峠に出て、そこから高尾山頂を目指す、というつもりだったんですけどね。

それにしても、気温30℃超えで歩くのは思ったよりしんどかったです。森林の中なら涼しいだろうと思うのは間違いでした。あまり風もありませんでしたし。水分補給をしながら、へろへろと歩いていました。

高尾駅から南高尾を歩くコースは、最高でも530mくらいだし、急坂もないので、そうきびしくはないのだけど、それでも累積の上りはけっこうあるな。

ということで、大垂水峠まで歩いた後は、高尾山に登ることなく、甲州街道を歩いて、高尾山口駅に出ました。

まあ、こんな暑い日にトレッキングすることって、いままであまりなかったです。だいたいこの時期の休日は釣りをしてました。でも、たまには夏の山もいいかな、と。

体力がかなり奪われるトレッキングでしたが、マイナーな南高尾山稜を歩く人は少なくなかったですね。

それと、この時期に見られる小さな花がいろいろ咲いていて、これもなかなか良かったです。

ということで、次は釣りに行きます。

 

6月から7月にかけて、けっこう楽しみな本が出ていて。いや、良かったですよ、ほんと。

 

イチバンのおすすめは、ジャネト・ウィンターソンの「フランキスシュタイン」(河出書房新社)です。舞台は、19世紀はじめの、メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」を執筆する時代と、現代を往復します。メアリーが夫やバイロンとリゾート地で過ごし、「フランケンシュタイン」にいたる間、ヴィクター・フランケンシュタインと出会ったり、といった虚構と混ざっていくあたりもいいのですが、面白いのは現代の部分です。

主人公のライはトランスの女性。乳房を小さくする手術を受け、ホルモンの注射もしているので、男性にしか見えないけれど、性別適合手術は受けていないので、ちんこはありません。

一方、セックスボットの開発者も登場。AIを搭載したセックスボット(オリエント工業のレベルで考えてください)がいれば、女性はいらないと考える男性は少なくないだろうし、市場は十分にあると考えている。他にもいろいろ登場するし、ヴィクターの名前を持つAI学者も出てくるし、などなど。

フランケンシュタイン」においては、生命の創造というのが1つのテーマだったけれども、現代パートでは、身体の適合、AIによる知性の創造など、テーマそのものが解体されて提出されます。トランスもひとすじなわではいかないです。

現代パートでは、現代社会へのいろいろな皮肉が言及されていますが、米国共和党を支える福音派への皮肉には、かなり笑わせてもらいました。

ちょっと厚めですが、一気に読めます。

 

オクティヴィア・バトラーの「地をわけた子ども」(河出書房新社)も面白かったですが、あらためて黒人女性のSF作家であるというのが、大きな意味を持っていると思いました。

生殖というのが生物の個体にとってどのような意味を持つのか、そのことは、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアが繰り返し書いたテーマでした。しかしバトラーはそこに、侵略された側が、生き残るために共生する選択肢を視点として入れました。知性を持った家畜、とでもいうのでしょうか。それは、ティプトリーにはなかった視点です。

こうした視点が、遺伝子テーマや旧約聖書テーマでも繰り返されます。

「キンドレッド」も同じ河出書房新社で文庫化されているし、どちらもおすすめです。

 

カルメン・マリア・マチャドの「イン・ザ・ドリームハウス」(エトセトラ)もとても良かったです。

テーマはレズビアンカップルにおけるDV(ただし本書ではドメスティック・アビューズと表記)。実際に、マチャドが過去に同性パートナーからDVを受け、分かれたという経験が語られている。という意味では、小説ではなくノンフィクションになるのだけれども、それはさまざまなスタイルによるたくさんの断章で書かれているし、そのことによって1つのことが、時系列をともなっていろいろな視点で見ることができる。彼女と暮らしたドリームハウスとは、どのようなものだったのか。

LGBTQの間でも当然のようにDVはあるのだけれども、だれもそれを語らなかったというのが、マチャドの問題意識。けれども、もうひとつそこにあるのは、ジェンダーの非対称をぬきにしたDVのこと。

書かれているタッチは、モニック・ウィティグの「Across the Acheron」、あるいは邦訳されているものなら「女ゲリラたち」を思い出すのだけど、そんな本、誰も読んでいないですよね。

 

アリ・スミスの「夏」(新潮社)も良かったんです。スミスの四季シリーズが無事に完結。これまでも述べてきたので、繰り返し言うことはないですね。

ただ、「フランキスシュタイン」と同じ時代に書かれたということが、通底するところがあって、そこは興味深いところです。

 

そうそう、映画「エルヴィス」も観ました。子供たちと観てきたのですが、おもしろかったです。

前半は、ゴスペルからロックンロールに向かうエルヴィスです。黒人音楽をルーツに持ち、女性たちを夢中にさせたことが、白人男性に気に入らなかった、という50年代です。社会に反抗するエルヴィスです。

けれども、エルヴィスは悪徳マネージャーによって社会に巻き取られます。兵役についたあとは、重苦しい展開になります。ラスベガスの出し物となり、それでも人々は熱狂するわけですが、マネージャーのスノーマンはどうしようもない人物で、ホラーの範囲に入っていきます。エルヴィスの身体はラスベガスから出られないまま、蝕まれ、やがて死に至ります。

エルヴィスの人生がそうだったのだから、後半の重苦しさは避けられなかったのだけれども、それでもエルヴィスは50年代を代表するシンガーだったし、だからこそその50年代を描いた前半の疾走感は、今のアメリカに融和を語り掛けてくるものだったと思います。

 

とまあ、そんなわけで、安倍晋三殺害事件をきっかけに、自民党統一教会の関係が世間をにぎわせていますね。文春だけではなく新潮までかなり書いているので、そう簡単に自民党も火消しできないでしょう。

それでも国葬に走っていくというのは、何かしら異常な状況を炎上させていくことにしかならないと思います。

こうなると、安倍晋三殺害というのは、社会的に大きな意味をもたらしてしまったと思います。あらためて、スティーブン・キング原作の映画「デッドゾーン」を思い出してしまいます。だからといって、人が死んでいいとは思わないし、こうでもしなければ自民党統一教会のことが明らかにならなかったという点では、日本のマスメディアそのものの問題でもあるんですけどね。

 

ところで、笙野頼子の「発禁小説集」に統一教会との関係が深い山谷えり子の名前が出てきて、笙野はトランス排除を理解してくれている政治家は彼女だけだとするくだりがあるのですが。あらためて、トランス排除ラディカルフェミニストって、統一教会のまわしもの、というかそのデマを信じている人なんじゃないか、と思ったりもしました。トランス排除って、家制度と親和性が高いですからね。そして、これによってフェミニストが分断される。

と思っていたら、実際にそういう言説もネット上に出ているそうです。

 

とまあ、そんなこんなの8月です。