こちら葛飾区水元公園前通信672

 教育基本法の改悪問題とか憲法改悪問題とか語るときに、すごく見逃されていることがある。戦後、教育基本法のおかげで、みんな自分ばかりが大事に思うようになった、とか、権利ばかり主張して義務が忘れられている、とか。でも、そもそも、その自分って何だろうか、って思う。そんなに言われるほど、日本という国に住む人々の内面は個人として自立してきたのだろうか、って。中途半端な個人主義が横行するから、かえって引き戻されてしまうのではないか、と思う。
 これはトーキングヘッズでも書いたことだけれど、アイデンティティがからっぽだからこそ、愛国心でそれを埋めようとするわかりやすい論理がのさばってしまう。そこには、個人の自律なんてない。

 そんなことを考えながら、ずっと前に読んだのが、小田中直樹の「日本の個人主義」(ちくま新書)だったりする。
 でも、その話をする前に、先週の「総理太田、秘書田中」のこと。この日は、太田光総理大臣が、「政治に関する世論調査は禁止する」という法案を提出した。国民は世論調査の結果によって左右されてしまい、自分で考えることをしないので、それはやめてしまおう。しかも調査の方法によってミスリードすることは可能であり、それによってイラク派兵を認めるという世論がつくられ、安倍内閣の異常な支持率の原因ともなっている、ということだ。世論として示されてしまうと、なかなか少数意見は言いにくいという人が多い。太田自身、かつてのイラク人質問題で、「自己責任」という言葉が横行したとき、怖くて反対意見は言えなかったという、そのときの後悔がある。
 結果はというと、否決されてしまったのだけれど、ぼくとしてはこの法案は悪くないって思う。それは、まわりの意見、すなわち世論にとりこまれることで、多数派の中にいて安心できる。でも、それじゃ、何も考えない多くの人はミスリードされていく。しかも、世論調査がどれだけ信頼性のあるものなのか。母集団は無作為に電話で抽出されるけれど、回答できる人は限られているのではないか、とも。だったら、世論調査をやめるというのはあるかもしれない。というか、結局のところ、選挙権を持って政治にコミットするのであるから、自分で考えようよ、ぐらいは言っておいてもいい。
 そんなふうに思いながら、この番組はけっこう矛盾していて、後半は「国民の怒り」のワースト5を紹介し、みんなで怒ったりしている。なんかそれって、結局みんなの怒りということに、出演者も同調しているんじゃないかって思い、違うじゃん、という突っ込みを入れたくなってしまうのだけれども。第2位が「北朝鮮」で、みんないちおうは怒っていたけれど、その怒りの先が北朝鮮だけに向かっていたわけではなく、「核を持っていたのはわかっていたのに、今更何をあわてているのか」と政府を批判する意見なんかもあったりして、多少は救われるのだけれども。

 というわけで、個人主義、というか「自律」をアクチュアルな問題として捉えたのが、小田中の本ということになる。
 戦後、家制度から解放された人々は、「個人の自律」に向かうように示された。けれどもそれは強制である限り、自律にはならないということを含む。とまあ、そんなこんなで、自律の方法は示されるわけだけれども、今もってそれが課題。経済という中で、地方の自律が語られ、教育の中ではゆとり教育の中で「生きる力」をやしなうということが語られる。それはすごくいいことなのだけれども、でも結局は半端なまま、揺り戻されてしまいそうだ。地方が自律しようとしたって、財源がない。教育については言わずもがな。
 そして、「自律」は啓蒙され学ばれることによって実現するものだけれども、ではそれは自律なのか。
 本書は大塚久雄の戦後の主張を、「個人の自律」を切実な課題とした経済史学者の主張をたどっていくことで、「自律による経済成長」という単純な発想を批判しているし、自律なんてできないというポスト近代主義をも批判している。ついでの大塚の「社会科学の方法」(岩波新書)、「社会科学における人間」(岩波新書)までよんでしまったのだけれども。そこでは、ロビンソン・クルーソーをモデルに、自律する人間の姿を描き、カール・マルクスマックス・ウェーバーの議論から、社会における自律した人間を描き出そうとしていた。
 ぼくはというと、「個人の自律」なんて達成されていないって思っているし、だからこそ大塚の議論はまだ有効なんだと思う。それは啓蒙されることによって可能だけれども、少なくともこうした思想がいったんは普及していかないと、先には進めない。

 そういった意味では、村上龍がくりかえし、「国民ということばで人々をとらえることはできない」と述べ、個人としてどのように生きていくのかを考えないとだめじゃなないか、というようなことを語り、伊藤穣一と「「個」をめぐるダイアローグ」という本を出すのは、すごくわかる気がする。
 でもそれは、自律した個人だけが経済活動の中で救われればいいという話などではなく、だからこそ啓蒙が必要になるということなのだけれども。

 たぶん、見田宗介の「社会学入門」(岩波書店)も無縁ではない。あまりにも広い視野に立っていて、ちょっと理想論を語りすぎるんじゃないか、とも思うけれども、でもその前提としてやはり、自律した個人が確立されている必要はあるだろうし、その上で社会のネットワークをつくり、知を越境させていく。ぼくはそれはアリだと思う。

 アイリーン・ガンの「遺す言葉、その他の短編」(早川書房)をもう少しで読み終わるところ。短編って、気持ちがのれないうちに話が終わってしまったりということもしばしばあって、手軽に読めるわりには、ちょっとしんどかったりもするのだけれど。最初に収録された「中間管理職への出世戦略」は笑わせてもらいました。

 今日も「のだめカンタービレ」である。上野樹里の不気味さがなんかいいのだ。