こちら葛飾区水元公園前881

tenshinokuma2018-08-13

 こんばんは
 台風は、ぼくの住むあたりではそう大変なことにはなりませんでしたが、海沿いはけっこう大変だったかもしれません。
 という間に、次の台風ですか。

  先日、東京都内にある銭湯を巡り終えました。最後は、立川市にある立川湯屋敷梅の湯でした。
 はじめたのが2011年10月でしたから、約7年かかったことになります。
 もちろん、その前からも、いろいろな銭湯に足を運んでいたのですが。東日本大震災をきっかけに、近所の銭湯の1つ、第二寿美の湯が閉店してしまいました。その前にも、たくさん閉店していたのですが。でも、銭湯はどんどん失われていくものなのだと思うと、まだ営業しているうちに足を運ぼうと、そう思ったわけです。
 それに、その年の10月に新しい銭湯マップができて、それにスタンプノートもついていたというのもきっかけになりました。
 そんなわけで、681店の都内の銭湯のスタンプを集めたということです。
 まあ、第二寿美の湯のように、スタンプをもらう前に閉店してしまった銭湯もたくさんあるし、組合に加盟していない銭湯にも足を運んだし。
 千葉、埼玉、神奈川、さらに茨城、宮城、栃木、静岡、愛知、鳥取、京都、大阪、兵庫、福岡、鹿児島の銭湯にも足を運んでいるので、実際に行った銭湯の軒数はもっと多いです。
 その一方、行く前に閉店してしまった銭湯も少なくないです。
 今では、都内の銭湯は600軒を切っています。

 ただ、銭湯が減っていくのは、仕方がないことだとも思います。最盛期こそ都内で2500軒くらいあったそうですが、そんなたくさん必要ではなくなっていくので、減っていくのは当然です。
 それでも、コミュニケーションの場として、あるいはレクリエーションとして、多少は残っていくということでしょう。特に、新しく改築された銭湯には、そうした部分があります。鶯谷の萩の湯、錦糸町の御谷湯、尾久の梅の湯、表参道の清水湯、武蔵小山の清水湯、蒲田の福の湯などなど。
 同時に、いくつかの銭湯は、昭和の雰囲気を残したまま、続いていくのかもしれません。そして、とりわけ後者には、できるだけ足を運んで欲しいとは思います。
 まあ、中には、船橋のクアパレスのように、謎の世界もありますが。
 酒屋も本屋もローカル線もなくなっていったし、かわりにコンビニやマイバスやツタヤや高速道路ができる。映画館はなくなったけどシネコンができる。そうした中で、それでも記憶にとどめておくということは意味があると思います。
 まあ、今ではツタヤが減っているということですが。
 それはそれとして、やっぱり銭湯は気持ちがいいので、これからもあちこち行くことでしょう。昭和の雰囲気を残した銭湯に、もっと足を運びたいですね。

 田中慎弥の「宰相A」(新潮文庫)を読みました。まあ、Aが安倍なのかアドルフなのか、というのはありますが。小説家の主人公が、Aに独裁されたパラレルワールドに迷いこむ、しかもそこは米国に統治される、原日本人はパレスチナ人みたいな扱いを受けている、というようなディストピア小説です。
 でも、現実のでたらめぶりを考えると、なんかゆるいなあと思ってしまいます。とはいえ、書かれた時期を考えると、事態が深刻になっていくのはとても速かったなあと思わずにいられません。
 Aは、独裁者というよりは、独裁の人形としかいいようのない、空虚な存在として描かれているのです。まあ、そうですね。

 根井雅弘の「サミュエルソン」(中公文庫)も読みました。ここでいきなり経済学ですか、とか。まあ、ケインズ新古典派を合わせた経済学理論ということになるのでしょうか。
 その新古典派総合というのは、経済学の世界では過去のものにされているみたいなのですが、重要な示唆があるので、というのが根井の立場でしょうか。
 ポール・クルーグマンサミュエルソンの弟子にあたる人で、なんだかんだ言って、最近のエッセイはここに近いのかな、というのが根井の見方です。
 ぼくとしては、わりと日本の状況を説明するのに、いいんじゃないか、と考えています。
 先日も、黒田東彦日銀総裁が、長期金利の上昇を少しは容認するとか、そんなことが話題になっていたわけですが。

 新古典派総合に対し、マネタリストが登場します。マネタリストは、通貨供給量が増えればインフレになるといいます。でも、新古典派総合は、そこに税などの条件も加わります。
 結局、金融政策はマネタリストたちの主張によって進められるようになります。
 でも、結果はマネタリストの通りではなかった。というのが、安倍政権下での日銀の金融政策です。

 これは以前から言っていることですが、日銀の金融政策はさほど間違ってはいないということです。日銀にできることは、通貨供給量を増やすことだけなのですから。
 したがって、アベノミクス批判といっても第一の矢を批判するのは的外れだと思うのです。
 けれども、それだけで景気が良くなるわけではありませんでした。実際に、増税が行われました。でも、それ以上に問題だったのは、内需を拡大する政策をとらなかったことです。
 財政政策は、限られた分野にだけ行われました。例えば、2020年の東京オリンピックがそうです。暑いとか負担が大きいとかボランティアを活用しすぎだとかいろいろな批判があります。けれども、財政政策という意味での問題は、そもそも福島復興需要などがあるにもかかわらず、さらに建設需要を積み増ししてしまったことです。そこにしかお金が流れないのですが、供給に限りがあるので、そこで止まってしまいます。
 賃金を抑制する政策も同様で、これでは内需は拡大しません。福祉政策も、安心できる社会を構築することで、消費を増やすという効果があるはずです。
 こういうことです。サッカーでいえば、日銀は、安倍政権に対して、的確なパスを送っていました。しかし安倍政権はゴールとは反対側にボールを蹴ってしまう。その結果、事態はさらに悪化してしまいます。
 したがって、事態を悪化させない最善の方法としては、日銀は安倍政権にパスを送らないことでした。もっときちんとゴールを決めることができる選手が上がってくるのを待つべきでした。でも、それは、ワールドカップの日本―ベルギー戦のようなものです。正しい判断であっても、日銀の怠慢ということにされてしまうでしょう。
 黒田総裁のミスは、安倍政権の下で日銀総裁をしたことにつきます。

 まあ、安倍政権の反対側に蹴ってしまうというのは、ここにきてさらに深刻になっていて、米国のポチとして、オウンゴールを決めまくっているんじゃないかっていう感じすらします。イージス・アショアを買ったりとか、そんなことです。
 っていうのは、米国支配下で独裁する空虚な宰相Aという、まさにそうした姿ですね。

 それから、先日、友人である平辰彦さんの誘いで、ユージン・オニールの「霧」のリーディングを鑑賞する機会がありました。
 平さんは、10月にオニールの「喪服の似合うエレクトラ」を上演するということなのですが、そのプレ企画として、3回にわたってレクチャー+リーディングを行ってきました。今回はその3回目。
 オニールは20世紀前半に活躍したアメリカの劇作家です。この日のレクチャーは「背後の力」ということがテーマでした。人間には、どうにもならない運命を導く背後の力があり、そのことが演劇に示されているということです。
 「霧」は、救命ボートに乗る二人の男性、無言の死んだ子供を抱える女性もそこに乗っていますが、舞台はほとんど二人で進められます。女性は、元の戯曲にはなかった、冒頭の叫び声だけで、あとはじっと座っているだけです。
 二人の男性は、一人は実業家、もう一人は詩人です。実業家は生きることに肯定的であり、何としてでも生き延びようとする、詩人は死んだ子供に対し、貧困で将来いいことがないので亡くなって良かったと語る。登場人物が定型的という気がしますが、詩人の「貧困という遺伝」という言葉は、今なお、重いものがありました。
 オニールはシェイクスピアから大きな影響を受けているということなのですが、そのこともよくわかります。
 で、思ったこと。オニールの背後の力ということであれば、実は20世紀は、この背後に力に対して人間は逆らおうとしてきた時代だったのではないか、ということ。だから、やはり「霧」が古臭く思えてしまうところもあります。けれどもなお、現在に通じるとしたら、現在はやはり、背後の力にからめとられている時代なのかもしれません。
 とは思うのですが、「喪服の似合うエレクトラ」は、3部作で、まともに全部上演すると6時間かかるとか。そこを短縮して、4時間にするということですが、それでも長いですね。
 友人が進めている企画なのですが、見る体力があるかどうか。誰か、一緒に行きます?

 BANANARAMAの新しいライブアルバムが届きました。実はツアーの最初の方のライブアルバムがあって、それとまったく同じセットリストなのですが、まあ、両方買うと安くなったので、いいんです。
 オリジナルラインナップによるツアーで、この8月まで続いているのです。曲は、1stから4thまでのシングル曲が中心。
 それにしても、メンバーはみんな、ぼくと変わらない年齢ですが、それが元気に歌っているのを聴くと、ちょっと泣けてきて、元気も出ます。でも、歌は下手ですけど。

 そんなこんなで、今年も葉山の海で泳いだし、まだまだ暑い日は続きますが、夏は過ぎていきます。