こちら葛飾区水元公園前通信766

tenshinokuma2010-07-29

 今月、わずかな額ですが、印税が入るので、子供部屋にエアコンをつけることにしました。その工事があるので、家の近くで仕事をしています。そろそろ戻らなきゃいけないんだけど。

 そんなわけで、トーキングヘッズ叢書No.43も無事に刊行されました。今回の特集は学校です。最近、学校とのかかわりが多いので、うかつなことは書けないという特集です。今回も、ぜひとも、ご購入のほど、よろしくお願いいたします。
 特集にあたって、積読だったプロイスラーの「クラバート」も読んだし。

 世の中の動きということでは、辻元清美衆議院議員社民党離党というのは、なるほどな、というものだったと思います。どうも、民主党はうっかり、みんなの党新自由主義の方向に迷走しそうだったので、その歯止めになってほしいな、と思っています。

 そもそも、参院選の結果、与野党がねじれているというのが一般的な見方ですが、少なくとも環境・福祉政策は民主党公明党は近いし、その点では多数派になっています。ということは、民意もそこにあると考えてもいいとも思うのです。
 民主党公明党の連立はすぐには考えにくいですが、政策協力を通じてこうした政策を実現していくというのはアリだと思っています。手柄は公明党にあげてもいいでしょう。それでも、民主党は支持されるでしょうし。
 自民党と連立して小泉−竹中路線を進めたという公明党の過去を考えると、素直に支持しようとは思わないのですが、それはそれとして。
 ただ、そうした工作ができる人となると、小沢一郎ということになるでしょう。
 小沢一郎の復活は、こうした文脈において、アリだと思っています。

 書評のために、「現代思想」の6月号、「特集ベーシックインカム」を読みました。
 ここでは、書評に書かなかったこと。
 まず、新自由主義者ベーシックインカム(以下、BI)を支持する理由というのはわかります。山崎元が言うように、現金給付なら政府の裁量が少なくなる。つまり、利権がなくなる。小さな政府としては合理的です。
 これは、一定の合理性はあります。アフリカなどでの食糧支援に対し、現金で支援して食糧を購入してもらうほうが、現地の商業への影響は少ないし、それどころか育成になる、というのがあります。保育園の民営化というコンテクストでも、それはあるかもしれません。ただし、別の理由で、民営化を素直に支持することはないのですが。
 やはり、ある部分は、政府・行政の役割はあると思います。経済的合理性だけでは解決できないということです。

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 というところまで書いて、1日たってしまいました。
 現在は、小池晃が嫌いなタリーズで、記事をまとめています。

 で、続きですが、立岩真也は、微妙に違っています。立岩は、資源の再配分を考えるという文脈で、税やBIについて考えています。その意味では、最小国家ということは、小さな政府と一致するのですが、それが腑に落ちない、と立岩自身が考えているということがあります。それは、経済合理性とは別の目的で、再配分しようということなのだと思います。持続可能な社会がもたらす幸福というのでしょうか。そこに、効率性よりも人として本質的に持つ権利、人が進歩していく上で獲得していく権利というものが、重なっていくのかもしれません。
 そうしたことを、ああでもない、こうでもない、と立岩は考えます。

 BIを求める運動が、福祉政策への要求と切り離せない一方で、湯浅誠などがBIよりもまず、生きるための社会インフラの拡充を求めているということは、よくわかります。
 例えば、BIを導入しようとするとき、そこでは一律の給付ですから、高所得者にも給付されることになります。その財源を税でまかなうわけですから、所得税はその分高くなるでしょう。高所得者は給付されると同時に増税になるので、まあ、それでいいのではないか、という議論があります。
 でも、低所得者を救済するということであれば、マイナスの所得税でもいいのです。菅首相が消費税増税にあたって、低所得者に還付金ということも言いましたが、それが近いと思います。
 所得そのものは税務署が補足しているわけですから、低所得であれば一律にマイナスの所得税が支払われるということであれば、生活保護を受給するにあたっての負い目を感じなくてもすみます。
 結果として、働かないために収入がない人にもマイナスの所得税が支払われるでしょうが、それでもいいとも思っています。そして、ぼくとしては、この制度の方が導入しやすいし、まずはその導入をすべきだとも思っています。
 湯浅も、そういう制度が必要だと考えているのだと理解しています。

 でも、BIはもう少し違うと思うのです。それは、労働と所得の分離とでもいうのでしょうか。
 ぼくは「働かざるもの食うべからず」という考えは、捨てるべきだと思っています。
 いくつか理由があります。まず、資源制約がある中で、ぼくたちが生活をしていくための生産というのは、それほどみんなが必死に働かなくてはいけないものなのでしょうか? ということが1つ。よく、BIを支給したらパチンコで使ってしまう人もいるので、そういう人には無駄だという意見があります。では、その背後でパチンコ屋で仕事をしている人は無駄な仕事をしているのだろうか、ということも言えるでしょう。パチンコも仕事だ、という言い方も、今回の特集には出てきますが、さすがにぼくはその立場はとりません(ちょうど、目の前のパチンコ屋で、並んでいた人が入店していくところです)。
 また、働くということが、お金のためだけではない、とも思っています。特集の中で、介護労働が、お金だけではない「豊かさ」を持つ仕事だとして紹介されていますが、そうした仕事はたくさんあるし、また、実際にお金を得なくてもボランティア活動としてさまざまな仕事(奉仕)をしている人はいます。ウィキペディアの内容を充実させるために、どれほどの人が時間を使っているのか。
 もう1つ、言えることというのは、経済的価値は低いけれども、その存在が社会を豊かにしているという仕事があると思います。これは、さっきのボランティアとも重なる部分もあるのですが。音楽、文学、美術、演劇などに関わる人のどれくらいが、それを仕事にできるのでしょうか。アニメーターが職業として成立していないということもよく聞きます。
 どんな人でも、健康で文化的な生活ができるようにしておけば、その先、いろいろと自由な形で人生を充実させることができると思うし、そうした社会をつくっていくことが、人間の社会の進歩だと思っています。

 このことは、以前も書いたけれども、J・G・バラードは、「未来には仕事は遊びの一種になっていて、1週間に1日くらいですむようになっている」と予測していました。それはやはり、実現されていいことだと思うのです。

 そういうことを考えていたわけですが、最近、昔書いた短い小説のいくつかを発掘していて、20年以上前に、そんな社会を背景にした作品を書いていました。なんで発掘したかというと、トーキングヘッズ叢書の原稿を書くためだったのですが。その1つは、No.42に全文採録してあるので、と宣伝もしておきます。

 それにしても、今朝のタリーズは冷房がききすぎているな。

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 もうすぐ、「【新版】ノードストロームウェイ」(日経ビジネス文庫)を読み終わります。ノードストロームというのは、シアトルが発祥の地となる伝説的な百貨店。従業員には十分な裁量権が与えられていて、それは何より顧客が満足することを第一に決定していくという方針に基づいています。返品は無期限に受け付けるし、お客様が欲しい商品がなければ、近くの別のお店で買ってきて販売するということもあるということです。
 ブックオフで105円で買ったのだけれども、同時に顧客第一主義を徹底した伝説の百貨店に興味がありました。というのも、直接的には、スマートグリッドのようなサービスが、もちろんそれ以外のさまざまなビジネスで、顧客第一のサービスがあまりにも考えられていないと感じていたので。
 顧客が満足すれば、利益はあとからついてくる、という考えは、勇気がいるけれども、好きです。本質的には、お客様が満足してくれなければ、いつまでもつきあってはくれないし。
 とはいえ、どうにも、煮え切らないところもあります。読んでいて、ノードストロームが宗教団体に思えてきて。従業員に多様性がないと感じられるからなのかな。
 トップセールスのスタッフの年収は、80年代で、3万ドルだということです。これが高いか安いか。その割には、スペシャリストとして、相当な努力をしているのですが。また、ノードストロームで買い物を楽しめるのは、富裕層なんじゃないか、というイメージもあります。
 この本が出たのが10年前。今は、どうなっているのでしょうか。

 昨日は、千葉法相の下で、死刑が執行されました。けっこう、ショックを受けています。何か、大きく裏切られたという。
 鳩山由紀夫は死刑が執行されないということを織り込んで任命したのではなかったか、と思っていたし。
 いのちを守る政治というのは、鳩山由紀夫とともに退場してしまったのでしょうか。死刑囚のいのちを守るということは、仏教徒のぼくとしては、大切なことです。善人のいのちを守るのだから、まして悪人のいのちを守らないでどうする、という。
 死刑制度に対しては、いろいろありますが、本当に、悪人のいのちを守れずして、ぼくたち自身のいのちを守れないんじゃないか、ということがあります。そのことを、死刑を容認する人たちに、もっと理解してもらいたいんですけど。