三郷市の大和湯の前にいた黒猫

tenshinokuma2010-02-10

 休日の前日、だからではなく、考えることがあって、仕事が進まなかった。
 というか、具体的には、裁判の件。結審していて、ぼくに支払ってくれるという判決なのに、払ってくれないから、どうしてくれようか、ということだ。
 それと、仕事でも動かしているプロジェクトの企画書を作りなおさなきゃいけないし。
 今夜は、マックでニューヨーク・バーガーでも食べながら仕事するか。

 そんなわけで、歌野晶午の「葉桜の季節に君を想うということ」(文春文庫)を読んでいる。斎藤美奈子の「誤読日記」で指摘された、ラスト50ページが何なのか、どうしても気になってしまって。

  昨日、ある民主党議員が講師をつとめるセミナーに参加し、そこで小沢幹事長への権力集中については、問題もあるが過渡期的なものだという話を聞いた。
 おそらく、そうした考えであるということは、小沢自身の頭の中に、かなりの確率であるのだろうと思っている。

 小沢幹事長への権力集中という指摘は、問題だと感じる部分は少なくない。陳情を一本化したり、一年生議員には政策より次の選挙を考えろ、と指示したり、議員立法はさせないということにしたり。ある意味では、議員の手足を縛っているように見えるし、その通りだとも思う。

 ただし、リーダーシップ論ということから見たとき、未熟な組織においては、強権的なリーダーシップが必要だということも言えると思う。
 ダメな社員ばかりの会社だったら、言ってきかせるより、強引に仕事をさせて体験をさせないと、何もできないということだ。また、そうしたリーダーシップを目にしたこともある。
 今の民主党がダメな組織だと言っているみたいだけれども、新人議員ばかりで心許ないという状況では、それは間違っていないのかもしれない。
 構想日本代表の加藤秀樹はJIフォーラムで一年生議員をよんで話をさせたときにも、結論としてそうしたことを言っていた。
 一年生議員だけではない。現在の閣僚など政府に入っているメンバーもまた、経験不足が否定できない。前原国土交通相はこども大臣と言われてしまうし、肝心の鳩山首相ですら、腰が落ち着かないように見えてしまう。
 それが先の民主党議員が指摘する「過渡期」というものなのかもしれない、と好意的に解釈できる。
 実際に、昨年末は予算編成をめぐって、小沢の一喝で決まったという話が流れている。

 とはいえ、強権的なリーダーシップはいつかは不要になるし、またそうでなくては困る。いつまでも強権的なリーダーシップを発揮しようとすると、成長した組織からは追い出されてしまう。
 ワンマン社長がいつまでもワンマンでいたら会社は成長の限界をすぐに迎えるということと同じだ。
 小沢幹事長は、二つの理由から、そのことを感じているのではないかと思う。
 第一に、自身が強い権力を持っているように見えたら、組織が成長しないということ。権力はほどほどに、ということだ。
 第二に、小沢一郎という政治家が持つ政策には、あまり中味がないのではないか、ということだ。生活重視と言ったところで、具体的に何をするかは、他の議員が持っていればいい。
 田中派が地元利益誘導型の政治を行っていたとすれば、小沢は生活者利益誘導型の政治で基板を安定させればいい、と考えているのではないだろうか。そうであれば、具体的な中味を持っている政治家を育てる必要がある。
 もちろん、カネと政治の問題で、ダーティなイメージを与えられてしまったということもあるが、そうであっても、田中角栄のように権力を行使し、政治に影響力を与えることはできる。

 さて、今回の枝野幸男行政刷新担当相だが、小沢から遠いのに、大臣に起用されたことで、小沢の影響力が低下しているのではないか、という指摘がなされている。
 しかし、そうした人間を取り込んでいくことが、組織の成長と平行している、と考えることはできないだろうか。
 小沢に権力が集中すれば、組織は壊れるということも、理解しているだろう。また、自分のまわりがイエスマンばかりでは、自分でも困るということを、一般的な経営者と同様に理解しているのではないか、とも思う。
 その上で、自分に対していくら批判的であっても、実力を認める政治家であれば、躊躇しない、ということも考えているのだと思う。