こちら葛飾区水元公園前通信619

 先日、のどに異物感があって、病院に行った。某氏の喉頭ガンが伝染したんじゃないかって心配になって。で、内視鏡で診察してもらったら、「痰がからんでるだけですよ」って言われてしまった。そうかあ。痰を切る薬だけもらって帰ってきたのだった。

 そんなわけで、ここしばらく、書評がらみの本を読んでいる。一つはデービッド・A・アーカーの「ブランド・ポートフォリオ戦略」(ダイヤモンド社)。このところ、仕事の上でも、ブランドマネジメントなんかがすごく気になっている。
 というのも、日本酒の場合、ブランド戦略をうまくやることが、成功の一つの条件になっている。事例としては、例えば和歌山県の「黒牛」。これまでの「菊御代」というブランドに対し、もう少し個性的で由来のある名前にするだけではなく、「黒牛」は純米酒に限るということにして、差別化をはかっておく。このことによって、品質が保証された、価格的にも手ごろな商品としてのポジションをとることができる。当然、商品の質も伴うわけだけれど、このブランド戦略は「黒牛」の成功に欠かせなかった。「由利正宗」に対する「雪の茅舎」も同じだな。
 「天明」や「浄心」など、新しいブランドを作って成功させた例は数え切れないほどあるのだけれど、逆に名前を変えなかった例もある。例えば福島県の「奥の松」は、ボトルの形を独特のものにすることによって、高級感を出すことに成功した。その上で、コンビニにまで納入していくことで、どこでもワンランク上のお酒が買えるというイメージをつくっている。低い価格帯まで同じブランドを使うことで、黒牛の10倍近い出荷量、コンビニやディスカウントショップへの納入を可能にしている。また、このブランドで焼酎なども造り、縦にも横にも広げている。
 「開運」というのは、圧倒的におめでたい名前なので、新しいブランドを必要としていない。むしろ、お酒全体の品質を向上させることで、ブランドを守っているケースだ。その上で、最高級品の一つには、杜氏の名前を冠している。杜氏の名前をブランドとして使っているというわけだ。
 今、やりたいって思っているのは、ある銘柄なんだけれども、ネーミングは定着しているし、地元性を持っているので、変えたくないものがある。そこで、サブブランドとして、構築して、新しいお酒を造りたいって思っている。ぼく自身は、実は「久保田」とか「天明」とは「飛露喜」といった名前には批判的だ。確かに成功しているが、どの地方のお酒かわからない。というか、由来が想像できない。品質と名前が一致すれば、商品単体としてはそれでいいのだろうけれども、企業としてのマスターブランドとは切り離されてしまっている。ブランドはコンテクストの中にあってこそ、生きてくるし、次の展開も可能になる。顔の見えるものでなければならない。
 とまあ、そんな話を、ソニーやGEやシティバンクを素材にして語っているというわけ。でも、企業戦略としてのブランド戦略がまとめてあって、すごく有意義な本なのではないか、とも思う。なんせ、日本の企業って、ほんとうにブランドを理解していないというか、軽視しているというか。社名そのものが大切なブランドなのに、これを裏切るし、コンテクストを考えずに拡張したり、そもそも関心ないんじゃないかっていう。いや、ブランドをテーマにした本の企画がぼつになったという恨みがあるのかもしれないのだけれどもね。まあ、それはいいとして、なかなか話が通じなかったりするし。

 関なおみの「時間の止まった家」(光文社新書)は、これも書評がらみだけれど、おすすめ。在宅介護の現場とかかわってきた、医者である著者は、趣味だったカメラを利用して写真をとってきた。崩壊寸前の小屋、ごみであふれる部屋、猫のうんこだらけの押し入れ、などなど、どんな暮らしなんだって思う。悲惨というよりも、そんな困難な状況に陥った人生って何なのだろうって思ってしまうのだ。そうして、人生という手触りがあり、かつ多くのケースでは著者を含むスタッフによって救われている。そのプロセスも含めて、面白いというか、けっこうぐっとくるものがある。だって、いくら自分は老後も元気に暮らしたいって思っても、どうにもならなかったりするということもある。いくら予防したって、やっぱり体力は衰えるし、認知症にもなる。そうしたとき、一人で、あるいは高齢者だけで暮らせるとは限らない。そんな未来を見てしまう気がするのは、ぼくだけではないはず。

 介護関係で、「瑠璃いろの朝に」(ドメス出版)という詩集も読んだ。介護がテーマだけど、なんか手触りは恋愛みたいな感じだったりする。老後も、一人で暮らすのではなく、コミュニケーションをとりながら自立するというのがいいなって思う。著者自身の高い感受性があって、それが可能なんだろうけれども、そうだとすれば、こちらも感受性を高めておかないと。といっても、それもまた、老いるものなので、難しいんだろうけれど。気持ちとして、コミュニケーションを拒むような自立は良くないよってね。そうではなく、この詩集にあるように、人の心に残る存在、それでいいんじゃないかって。

 日曜日には、保育園のたんぽぽ組の子供と父母で、水元公園でバーベキュー。でも、なんか、子供と遊んでいたり、娘のわがままを聞いていたりしていて、食べそこなってしまった。最後は雨が降ってきて。それにしても、なかなか家族同士がコミュニケーションしてくれないので、けっこう難しいなあって思ったり。これは娘のときと違う点。一方うちの息子はあまりお友達と遊んでいてくれない、というかぼくと遊びたがってしまうので、あまり他の子供と遊べなかった。子供を介して、他の親と仲良くなるというパターンだったのだけれども。
 それにしても、近所の公園なんかに行っても、あまり同じクラスの親に合わなくって、娘のときとずいぶん違うなあって、思うのであった。

 「デスノート」の8巻も買ったけど、Lが死んでしまったので、なんか力が抜けてしまったというか、もういいやっていう気持ちになってきたな。

 YESの「Word is live」を買った。1970年から1988年までの未発表のライブ音源のアンソロジー。トニー・ケイ在籍時の「America」や、ラスカルズのカバーの「It‘s love」、バグルスエスの未発表曲なんかが収録されていたりして。みんな、実はブートで聞いていたものではあるのだけれども、それもとりあえず、正規の作品として残るわけで、それはそれでいい。ただ、これまでのライブアルバムと違って、コンサートの追体験っていう感じとは違う。そういうライブアルバムですね。まあ、どうでもいいんですけど。それにしても、Disc1の取り出しにくさは半端ではない。笑うしかないような構造。説明できないよ。

 そんなわけで、実は「げんしけん」にはまっている。大学のおたくサークルが舞台のマンガなんだけれど、というかアニメで見ているのだけれど、なーんか、思い当たるというか、新たな発見というか。どうなんでしょうかねえ。