モノと情報の分離

tenshinokuma2012-07-04

 昔であれば、本は読みたいから買うというのが普通の考えだった。でも、実際には、モノとしての本の愛着があって、たとえば、文庫本の背表紙が変わったりすると、本棚が美しくなくなるので、怒ったりする人もいた。
 ぼくは、さほどモノとしての本にはこだわらないようにしているのだけれども、それも収容できるスペースに限りがあるからで、本はできれば本棚に並べておきたい。
 でも、並べなくてもいい本もあるわけで、それなら電子書籍でいい、ということになる。
 こういうことは、音楽について、どれほど進んでいるのか、ということは言うまでもない。
 モノと情報は別の価値だし、だったら、分けてもいいんじゃないか、というのがあって、その極端な姿が、実用性のないフィギュアだったりする。実用性はないけれど、自分の世界の中で所有しておくことというのは、それなりに必要なのだろうな。
 こんなことをどうして考えているのかっていうと、モノの消費は限られたものになっていくんじゃないかっていう予測があるから。情報については、コピーがいくらでも可能なので、大量消費してもさして環境には影響ない。モノはそんなにたくさん必要ないけれど、どうしても、というものくらいで。
 自動車というモノが欲しい人はそれなりに自動車を買うけれど、移動したいだけであれば、さまざまな選択肢から自由に選べる。自動車を所有する必要はない。とか。
 そうした視点から、これからの経済を見直すと、「グリーン経済」と同時に、「クローム経済」もあるのだろうな、と思っている。クロームというのが、なんとなくウイリアム・ギブスンの世界みたいで、時代遅れの感もあるけれども、でも80年代のクロームというのが、今にきているということも感じているので。「あいどる」はめぐりめぐって初音ミクだし。
 ということを考えつつ、先日の写真のフィギュアの部分のアップ。