倫理と正義について

tenshinokuma2011-03-22

 福島第一原発における、機動隊、消防隊、自衛隊、そして当然だが現地で作業を続ける電力会社や重電メーカーの職員も含めて、その活躍には頭が下がる思いだが、その上で、思ったことがある。

 つい先日、ハーバード大学マイケル・サンデル教授が来日し、テレビ番組で講義を行う番組を見た。ビートたけしをはじめとする生徒が、正義について議論するというものだ。
 ここで、サンデル教授はこんな状況を設定する。
「ブレーキの故障した列車の先に、5人の作業員がいて、このまま進めば彼らをひき殺してしまう。しかし、途中に支線があり、その先では1人だけがいる。ポイントを切り替えれば、その1人は死ぬことになるが、5人は助かる。では、ポイントを切り替えるべきか?」
 一つの考えとして、より多くの人間を助けるために、ポイントを切り替えるべきだというものがあるし、そうした回答をする生徒もいた。そこで、サンデル教授は、問いの状況を変更する。
「5人がひき殺されるのを、近くで見ている。となりには大きな男性がいて、彼を突き落とし、列車を停止させれば、5人は助かる。では、その男性を突き落すべきか?」
 このとき、誰も突き落すべきだとは答えなかった。でも、何が違うのだろうか?

 確実に言えることは、前者の例も後者の例も、5人を助けるために死ぬという義務を、誰もが持たないということだ。
 そして、福島第一原発では、私たち自身が、本当に、この問題に直面してしまったということだ。

 ぼくたちは誰も、機動隊や消防隊や自衛隊に、被ばくの危険がある場所に行けと言うことはできない。その結果、原発メルトダウンするとしても、だ。
 それでも、彼らはその場所に行ってくれた。それを英雄とよぶには、あまりにも重いと思う。

 伝え聞くところでは、被ばく線量は最大60ミリシーベルトだったという。
 250ミリシーベルト以下では、疫学的に有意な放射線障害は見られないということになっているが、それは無害を意味していない。60ミリシーベルトという量が、今後、どのような影響を人体に残すのか。そのリスクはあるし、すぐに顕在化するわけではない。ひょっとしたら、彼らはこれから一生、放射線障害のことを恐れながら生きなくてはいけないのかもしれない。そうしたことを、ぼくは受け止めきれない。