こちら葛飾区水元公園前通信764

tenshinokuma2010-06-24

 「けいおん!」をリアルタイムで視聴。
 って、書いてみたりする。そういう時間になってしまう生活はしたくないんだけど、いかんですね。仕事をだらだらしてるからいけないんだけどな。

 などと書いてから一晩たってしまった。
 書きたいことはいろいろあるんだけど、なかなか書けないでいる、というのが現状だな。

 そんなわけで、伊藤計劃の「メタルギアソリッド ガンズオブザパトリオット」(角川文庫)を読んだ。これで、伊藤が生前残した長編は3冊とも読んだことになる。
 一番好きな作品は、「虐殺器官」ということになる。「ハーモニー」はその虚像かもしれない、とも思う。
 伊藤の小説を読んでいて、どうしても辺見庸のことを考えてしまう。いずれ、あらためて書くとして、ここではメモ書き程度に。
 ぼく自身、ミリタリーSFには興味がなかったので、結果として「虐殺器官」を読むのはずっと後になってしまったのだけれども、そこで描かれる戦争っていうのは、不思議なリアルさがある。戦場の現場のリアルさ、というんじゃなく、戦争がリアルさを失ってしまったようなリアルさっていうのかな。それを極限まで進めてしまうと、J・G・バラードの「第三次世界大戦秘話」になってしまうんだけど。
 こう言ったらいいのかな。田中宇がレポートしている、国際政治の状況っていうのは、妙なリアルさの欠落がある。目に見えないところに、米国では隠れ多極主義者がいて、米国の唯一の大国という座を明け渡すべく工作している、といったようなこと。たぶん、事はそんな単純なものではないとも思う。大きな流れはそうだとしても、それが特定の誰かによるというものではない、というような。
 例えば、米国の国防総省が、政権がどうあろうと、自分の意思を持って動いている、と言われても、誰も驚かないようなこと。
 でも、それが何なのか、イメージできない。闇の権力者がどこかに集まって、相談している、というものの、リアリティの欠落である。

 戦争のリアリティって、多くの日本人にとって、これと似ている。冷戦時代、核戦争が起きたら、報復しあい、それでも人口の何%かは生き残って決着する、というようなものがリアリティだった。東京駅の地下ホームや千代田線の国会議事堂駅構内で生き残る人がいる、というような。
 そして、この戦争のイメージは、ゲームとアニメーションによって増幅される。でも、映画は少し違う。実写で人がミンチ状態で殺されていく場面から始まる映画があった。

 戦争で人が死ぬ。でも、兵士にとって、そのことへの恐れというのは、時に麻痺してしまうものなのかもしれない。
 チェチェン共和国の大統領が、そんなことを言っていた。開戦したら、恐れはなくなる。そして、大統領自身、戦死してしまうわけだが。
 本当に恐れがなくなるか、ではなく、麻痺させられていくものだという。冷静になれば、恐れるしかないものなのだけれども。

 辺見は自らを戦争の中に記者として入っていくことで、そのリアリティを感じ、伝えようとした。それは、戦闘の現場だけではなく、その空間的・時間的周辺でも。ハノイ特派員を経験し、もの食う人々を取材し、あるいは従軍慰安婦のリアリティをそこに感じ取っていく。その延長に、地下鉄サリン事件がある。

 伊藤にとって、人の命の持つ価値観をゆるがすのは、現実の戦場ではなく、体内の戦場、自らの病だったのではないか。「虐殺器官」において描かれる、ひき肉になっても戦い続ける兵士というのは、そもそも生還するという前提が欠落した戦争ということになる。そうであってもなお、生命は生きることを指向してしまう。
 とはいえ、生きるということは、意識があるということ。だとしたら、意識がない場合はどうなのか。常に脳が合理的な判断をするのであれば、世界に適応できるのかもしれないけれども。

 辺見が最後にめぐる戦場の1つが、日本における死刑囚の存在だ。死を約束され、拘束されつつ、なお、その死の決定権を持たない人々。

 伊藤の戦争へのリアルさは、自身の内部にある戦場に起因するものだとして、そのことが、「メタルギアソリッド」にも反映されていた、と思う。むしろ、このゲームによって、老いや、死につつある人間、そしてそうであるにもかかわらずまだ死なない人間、そこでの生命の意味、という問いかけがなされたのではないか。

 そして、その生命を握っているのは、特定の個人の意思ではない、ということが、兵士でも死刑囚でも同じではないか、とも思う。そのどうしようもない理不尽さ、誰かのために死ぬ、ということがクリアにできないということ。

 つまるところ、いずれ、伊藤の「虐殺器官」と辺見の「生首」の間にある闇について、書かなきゃいけないなあって、そう思っている、ということだ。

 そういや、宮下あきらの「暁!男塾」が完結した。ここに登場する男たちは、みんな死に場所を求めている。求めながらなお、生きている。
 宮下の持つ、過激なアナーキーさは、もっと評価されてもいいと、いつも思っているんだけれども、その上で言えば、男塾の登場人物はみんな、生命を自分で握っている。だから、クリアに、誰かのために死ぬことができる。そんなことも、今、思い出した。

 今月も釣りの話。
 先週の金曜日に、江戸川放水路でハゼ釣り。今年最初。まだ小さいハゼだけど、様子を見るつもりで。
 江戸川放水路は高潮対策で土手の工事をしているため、ちょっと釣り場に出にくい。ということで、この日はなかなか釣りができず、走行するうちに雨が降ってきた。それでも、息子と2人で、20匹くらい釣ったかな。まあ、息子はアサリなどの貝を探す方が忙しかったみたいだけど。
 本格的なハゼ釣りは、7月の終わりくらいからだな。

 そういうわけで、もうすぐ参議院議員選挙
 鳩山首相が辞任して菅首相になったのだけれど、個人的には鳩山のが好きだったな。夢みたいなことを言うので、どうなの、と思う人は多いけど、そういうことを語るのが良かったと思う。菅は、そういう語りをしなう。
 菅が40代の頃に首相になったら、また違ったかもしれないな。ラディカルな革新政治家として。でも、なんだか、つまんないくらい現実的なことを言ってはずしてくれているのが現在。
 消費税のことだけ、言っておく。たぶん、10%にするというのは、そのことだけをとってみれば、まちがっていないと思う。
 でも、それじゃ足りない。
 第一に、景気が本格的に回復するまでは、消費税を上げるという場面にはならないだろうこと。まあ、あと3年は上げないとは思うけど。でも、菅はそういったアナウンスもすべきだと思う。あと3年は、バラマキでもいい。
 菅のブレーンの小野善康の考えなんだろうけど。まあ、消費税をとっても、適切に使われれば、バランスとしては悪くないとは思う。大切なことは、そのことを理解させるしくみがないと、消費が冷え込むことなんだけどな。
 第二に、税調が報告しているように、累進課税の強化もセットで言っておくべきだったということ。
 環境を成長産業にするというのはいいけど、介護・福祉産業を成長産業にするというのは、無理がある。というのも、その市場は、かなりの部分を介護保険制度による支払が占めているわけだし、ということは、その市場規模は制度の支払い能力に従っている。まあ、要介護者が増えるので、市場は拡大するのだろうが、そのためには、財源が必要になる。つまり、無制限に成長できるわけではなく、適切な成長しかない、ということだ。そして、その適切な成長の実現が、所得の再分配の強化ということになる。
 まあ、本質的には、「財源確保のための増税はいずれ必要になるし、そのための議論は今からするけど、少なくとも3年間は消費税増税という局面はない、ということで良かったんだと思う。
 選挙結果はどうなるのかね。社民党共産党にはがんばってほしいな。それと、民法改正というか、選択制夫婦別姓や非嫡出子差別解消を推進する政党には議席をのばしてほしい、と思っている。

 東京ヤクルトは、今シーズン、すでに終わっている。監督もいなくなっちゃったし。なんだか、その意味では、今年後半、気が抜けたような感じだな。

 今週土曜日、26日、釣りに行く予定だ。

 写真は、水元公園と三郷公園の間にいたネコ。