こちら葛飾区水元公園前通信763

tenshinokuma2010-05-18

 ゴールデンウィークはいかがでしたでしょうか。こちらは、ナンジャタウンでゴーストパニックをしたり、東武動物公園で3Dシアターに入りそこなったりしていた。

 今年は、釣りに行っても、あまりいい感じじゃなく、5月3日、ゴールデンウィークのさなかに友人Aの車で横須賀まで行ったときは、渋滞にまきこまれるは、駐車スペースがないわ、結局のところ何も釣れなかったという。
 そんなことがあったので、5月5日には、息子と二人でリベンジ、葉山の芝崎まで行った。
 まあ、ここまで釣れなかったのは、息子が七福神めぐりで恵比寿様に泥をかけたバチがあたったんじゃないかという説があって、まあそういうことだったんだけど、リベンジはどうにか魚が釣れたので、良かったということになる。

 芝崎は逗子から海岸通りの一色海岸方面のバスで行く。真名瀬漁港とそこから芝崎方面につながる防波堤がポイントになる。
 芝崎の磯は干潮時は磯遊びができる場所で、釣れなかったらここでカニをつかまえればいいや、とも思っていた。まあ、磯は磯で、息子はせっせとカニをつかまえたし、アサリもいるので潮干狩りもできた。カキもはがしてもってきたし、それだけでもけっこう大漁ということになる。あと、フグも釣れたんだけどね。
 魚はというと、息子がベラを一匹釣ったので、まあ、いいかなと。ぼくはというと、メゴチ3匹とアイナメ。まあ、今回はこんなところで、といった感じだ。
 メゴチとカニは天ぷらに、アイナメとベラは塩焼きに、カキとアサリはトマト鍋になった。

 芝崎は好きなポイントなので、近くまた行く予定。いちおう、5月29日土曜日を予定している。一緒に行きたいという方はどうぞ。

 そんなわけで、ただいま、減量中。3キロくらい落とした。なかなか体重が変わらない人なので、大変である。

 以下、ちょっとたいくつな話かもしれないのだけど。

 去年の今頃は、「これからベーシックインカムが注目される」って言っていたような気がする。実際に、かなり注目されるようになってきたので、自分でもびっくりしている。
 山森亮の入門書は以前、紹介したかもしれない。最近読んだのは、立岩真也・齊藤拓の「ベーシックインカム―分配する最小国家の可能性」(青土社)だ。この本を要約するのはぼくにはできないし、というか、ぐだぐだとした立岩の文章をきちんと理解できたとは思えないのだけれども。でも、ベーシックインカムがどういう意味なのか、いろいろと考える材料を提供してくれる。

 ベーシックインカムについて注目する理由はいくつかある。
 まず、環境に関する物書きとしては、資源制約の中で、そんなに仕事ばかりしていていいのか、ということがある。所得を得るためには、働かなきゃいけないのだけれども、その労働が十分にないということがある。そうすると、お金はまわらない。
 単純に考えよう。1人が働けば、10人分の食糧ができるとしよう。では、1人が働いて9人を食べさせればいいのか、それとも10人で仕事を分ければいいのか。
 1人が働いて9人を食べさせるというときに、どんな根拠を持って食べさせればいいのか、そのしくみがないというのが現在の社会のしくみだ。したがって、9人は働く1人の肩をもんだり、お話を聞かせてあげたり、する。そうすれば、その報酬を渡すことができる。でも、穴を掘って、それを埋め戻すという仕事をしたらどうなのだろうか。そのことでかえって、食糧生産が減るとしたらどうだろうか。そうだとしたら、何もしない方がまだいい。
 10人で仕事を分けるというのが、ワークシェア。まあ、これは説明いらないと思う。

 もう1つは、「働かざるもの食うべからず」は真実ではない、ということ。日本国憲法に根拠を求めてみる。そこでは「健康で文化的な生活をする権利」と「労働の義務」が記されている。さて、この2つは不可分なのだろうか、ということだ。
 ぼくは、不可分ではないと思っている。現実に、「仕事がない」という状況では、労働の義務は意味をなさない。それどころか、「仕事があっても食えない」というのが、昨今の現実だったりする。

 働かないと食べられない、というシステムの中では、仕事は「レント」だという。立岩はそんな指摘をする。それじゃ、ダメだろ、というのが、ベーシックインカムの考え方のひとつ。
 「働くものも食べていい」というのであれば、生活保障でいい、ということもある。ぼくは、そう思う。
 立岩の本を読んでいて、ぼく自身の中では、資源制約の中で、仕事はレントなのだから、という考えをとることにした。
 でも、多分、「働かなくても食べていい」ということが、優先すると思うから、ベーシックインカムの導入の前に、まず生活保障の充実が必要だとも思う。

 生活保護というと、もらう側には負い目があるけど、ベーシックインカムだったらそうはならないという議論はある。そうだと思う。でも、いきなり、そこに行くのは無理だと思う。立岩は、こうした導入政策とは別の議論をしているのだけど。

 ベーシックインカム的なものとしては、子ども手当があり、年金制度で検討されている最低支給保障みたいなものがある。子ども手当については説明いらないと思う。
 年金制度は、破綻が見えていて、このままでは、無年金者がたくさん出るし、非正規雇用国民年金にしか加入していない人もたくさんいる。国民年金だけでは、老後の生活は無理だし、というか、生活保護を支給する水準以下になっている。ということで、いずれにせよ、ここは支出しなきゃいけない。だったら、最初から最低限の金額を支給し、年金の支払額に応じて上乗せした方が、支払うインセンティブがあっていい、ということになる。
 まあ、制度としてはそれでいいけど、これはあくまでベーシックインカム的なものでしかない。

 仕事を報酬を得るためのものというだけではなく、自己実現のためのものとして、もっと強く位置付けることができてもいいと思う。
 仕事と市場ということを考えるとき、みんながたくさんお金を払うほどじゃないけど、あるといいな、というサービスがある。まあ、公共施設のサービスというのもそうで、これは税金でまかなわれていたりする。図書館なんか、そうだと思う。あるいは、公共的な価値があるので、税金でやらなきゃいけないっていうものも。警察とか、学校とか。
 でも、その外にもある。例えば、演劇だけで生活ができる、ということは、あまりない。でも、演劇がなくていいということではない。作家も、たぶん、あまり儲かっていない人がほとんどだと思う。でも、その作品に価値がないわけじゃない。
 ベーシックインカムによって、最低限の所得が保障されたら、文化はもっと豊かになるんじゃないか、とも思う。

 ベーシックインカムがいいのは、お金ではなく時間の豊かさというのを、人々にもたらす可能性がある、ということはあるんじゃないか、とも思っている。

 ということ以上に、働くことの意味を、考える必要がある。
 協同労働組合法案というのがあって、成立が求められているという。労働者の組合ということで、雇われて働くのではなく、働く人自身が組織をつくり働くというしくみ。雇われるのではない、というのは、ちょっとパラダイムの転換とでもいうのかな。
 そこに適した事業というのが、福祉事業だったりもする。他にも、文化事業や農業なんかもあるんだけど。
 地域に必要なサービスをみんなで提供して、その対価を得る、というイメージかな。

 そこで、介護事業につながる。
 どうしたって、これから高齢者は増えるし、2025年には団塊世代後期高齢者になる。でも、何歳になっても、協同労働組合で働く、というのは、解決策としてはあり、ということもある。それはさておいて。
 今の問題は、介護労働の従事者の所得が低いこと。これは、やっぱり問題ではある。結局、市場化することで、資本が参入し、労働者を安く使うことで利益をあげる、コムスンがそうやってきたことが原因となって、労働単価が切り下げられてしまった、という歴史がある。
 では、報酬を上げればいいのか。たぶん、それは正しい。けど、そこで財源ということが言われてしまう。それは、支払うべきものではある。でも、きっと、どんなにがんばっても、銀行の役員みたいな報酬にはならない。
 介護と農業に共通するのは、生産性が人間に属していないということ。人の作業には限界があるし、その制約は、介護保険の財源だったり土地の広さだったりする。
 でも、豊かな老後のためには、介護事業がきちんと成立していることは不可欠だ。

 それでも、社会全体の生産性を公平に配分するためには、ベーシックインカムは有効なんだと思う。
 たぶん、仕事は「コミットメント」なんじゃないか、と思う。地域に対して何をするのか、という。

 そんな仕事ばかりだったら、日本は経済成長しない、という議論もあると思う。でも、今のままじゃどっちにしろ成長できないとも思う。

 話は変わるけど、そうだよな、と思ったこともある。本書で、リバタリアンベーシックインカムを主張しているということも紹介している。山崎元は、確かにそうだ。現金給付なら、政府は小さくてすむし。

 ということでなら、「「思いやり」の経済学」(岩波新書)の神野直彦は、ベーシックインカムに反対かもしれないな。ワークシェアという発想に向かっている。大きな政府で、北欧型の経済成長。その考えも、魅力的ではある。

 まあ、制度設計はさておいて、それでもやっぱり、みんなが仕事をたくさんしなきゃ成り立たない社会っていうのは、昔から進歩がなかったんじゃないかって、そう思う。
 働くことと生活に必要な収入は切り離してもいいんじゃないか、ということは、思う。
 障害者における「生きることも労働」という考えは、認めてもいいけど、立岩が指摘するように、ネトゲにはまっていることまで労働でいいとは思わない。そこは素直に、ベーシックインカムで、余計な仕事をしないで生活しているということにしてもらいたい。
 労働の評価の困難さというのは、人によって、努力と報酬の関係に差があることだし、そこを多少なりとも公平にするということもあってもいいと思っている。

 「新たな公共の担い手」という発想も、こうしたコンテクストで位置付けられるかもしれない。