カラス

tenshinokuma2010-03-31

 息子がおたふくかぜにかかってしまい、休みをとって釣りに行くとか、4月3日に弟のところで、娘の進学祝いをしようとか、そういうのがなしになってしまった。でも、おたふくかぜというのは、ひさしぶりに見るな。息子の顔がまんまるになってる。
 そんなわけで、今年は花見はどうしようかって思ってたけど、4月3日はうちにいるので、水元公園で花見をしたい人は、来て下さい。

 話は変わる。
 かなりあきれた話なのが、時候を迎えた警察庁長官狙撃事件で、公安部長が「オウムのテロ」だと会見で話したこと。
 言ってしまえば、それは反則。確証がないまま、話すべきではないし、確証があるのであれば指名手配なり逮捕なりできた話だ。
 負け犬の何とか、と言うにしても、みっともない。

 どうしてこういう発言になるのか。公安は仕事がないから、仕事をつくらないと縮小されてしまう。そのために、仮想敵が必要だし、そのためにオウムがある、ということになる。そのことを印象付けるために、こうした発言になったのではないだろうか。
 ということで、ますます反則である。

 こういうときにこそ、中井洽国家公安委員長は、警視庁を厳重注意しなきゃいけない。女性問題で開き直っている場合じゃないということだ。
 そういうことができなきゃ、ダメじゃん、ということになっちゃう。

 それから、「F君を殺して何になる」も読み終わった。
 増田美智子の著書。
 今さらながら、読み終わったので。
 本当は、F君ではなく、ここは実名なのだけれども、ぼくは成年であっても必要以上には実名を報道すべきではないという立場なので、あえて。

 良いか悪いかとは別に、いくつかの論点について。
 まず、本書が物議をかもしたのは、実名を公表し、それをタイトルにしてしまったこと。
 理由はわからないでもない。死刑にされようとしているのが、名前を持った人間であるということ。名前のない鬼畜のような存在ではなく、人間としての感情を持っていることを示したかったということだ。
 名前がないままに殺されていく人は、少なくない。911で亡くなった人々の名前は毎年読み上げられるが、その後のアフガニスタンイラクの戦争で亡くなった人の名前は読み上げられない。
 そのことは、死刑囚にも同じことは言えるだろう。
 だが、それがF君の名前を公表していいということにはならない。第一に、F君自身が家族を守る権利があるからだ。第二に、まだ公判中である。
 ノンフィクション・ルポルタージュとして、1人の人間を浮かび上がらせるために、実名が必ずしも必要だとは思わないし、それどころか、設定のいくつかをフィクションにすべきときもあると思う。
 本人の意図とは別に、実名にすべきではなかったと思うし、そうしてしまったことは、著者自身の能力の欠如と言われてもしかたない。

 F君の弁護団に対する批判は厳しい。報道を見る限りでは、争い方を間違えたと言われてもしかたないとは思う。本書が出たあと、弁護団は本書を批判したけど、まあ、批判されている人たちだから、ととらえられても不思議ではない。ただし、そもそも実際にどうなのかは、ぼくにはわからない。

 ノンフィクションとして、人間の深部にせまっているか。これは、ノーだ。書き方が、粗雑だと思う。テーマの中心が何なのか、そこがはっきりしない。これは著者の能力の問題。
 F君の背景などを描き、人間として浮かび上がらせるのか、裁判のありかたそのものを批判するのか。事件そのものについても、核心に迫っているとはいいがたい。

 そうであっても、擁護すべきなのは、加害者もまた、人間であるということを示そうとしたこと。名前もない、どんな人間かもわからないまま、行為だけによって断罪されたとして、そのことにどんな意味があるのだろうか、ということだ。

 さらに言えば、フリーライターの仕事として、決して経済的な見返りが十分にあるとは思えない中での仕事としては、割り引いてもいいのではないか、と思う。

 結論を言えば、本書はやはり、匿名のまま出版されるべきだったと思う。それでも、作者の意図は伝わると思うし、逆にそれでも伝わるように書くべきだったとも思う。そうであれば、どんな形にせよ、本書の存在意義は多少はあると思う。

 写真は、水元公園のカラス。巣をつくるための材料をくわえている。針金ハンガーかな?