とり天とだんご汁

tenshinokuma2010-02-15

 今日のランチは、近くの大分料理の店。店内には、セクシーな由美かおるのキンチョーの広告の看板とか、オロナミンCや黄桜や沢の鶴のもあった。大村昆がめがねをおとしていた。
 とり天は、細めに切った鶏肉の天ぷら。この形がみそだな。向こう側にあるのは、一緒に行った人が注文しただんご汁。鳥のすりみの肉だんごだけれど、しょうがが効いていて、ものすごくやわらかい。おいしいけど、介護食を思い出してしまった。
http://d.hatena.ne.jp/MARUHOPPE/20100215/1266203681
 夜のメニューは、そうぞうもつかない料理の名前がならんでいる。

 夕方のおやつはナチュラルローソンの四川坦々饅。ちょっと辛かったな。あたりまえか。

 そんなわけで、梅田望夫の本で感じたことが以下。

 「ウェブ進化論」は面白かったし、この本も、今更だけど、面白いと思って読んでいる。
 時代が中央集権的ではなく分散型になっていくというのは、それがウェブの進化のおかげで実現するというのは、悪いことではないとも思う。というか、その方向に希望を見出したい。
 ウェブ時代だからこそ、好きなことをやって生きていくことができる時代になったという。実体経済ではなく知識の経済、とでもいうのかな。お金じゃない理由で、リナックスが進化し、ウィキペディアが充実していく。悪いことじゃない。
 無料であるということが、ある部分ではビジネスモデルだけれど、ある部分は生き方の問題でもある。クリス・アンダーソンは前者しか指摘しないけど。
 でも、こうした文化を、開発を、ジャンクフードとジョルトコーラだけで引っ張っていくエンジンのような人がいるのは、その通りなのだろうと思う。ある部分では、ぼくらはウィクオエディアのフリーライダーでもあるということは、自覚すべきだ。

 その上で、梅田に対する違和感というのは、いくつもある。
 根本的なのは、「ウェブ時代だからできるようになった」のではなく、本質的にそうだったものが「ウェブ時代になって顕在化した」という違いなのだろうと思う。でも、言い方が抽象的だな。
 キャリアをどう考えるかという点で、このことは大きく違ってくる。ウェブ時代は知識が手に入りやすいから、高速道路を通るように、ある部分まで進めるけれど、そこから先に大渋滞がある。渋滞を気にしないで進むか、高速道路をおりて「けものみち」を進むか、という選択がある。言ってしまえば、「けものみち」というのは組織に頼らない生き方だ。
 でも、「ウェブ進化論」でも思ったけれど、「けものみち」を、ぼくは人にすすめない。それは困難で、挫折しやすく、しばしば後戻りができない道だ。
 ウェブ時代だからといって、そこで成功できる人間が多いとは思えない。コンテンツをつくるというだけであれば、ライターも同じだけれど、そこで成功している人間は、やっぱりものすごく少ないと思う。調査された平均収入の低さ、ウェブ関係のライティングがかつての「内職」レベルの報酬、ということを考えると、ほんとうにそう思う。では、ウェブ関係はどうではないのか?
 キャリアをデザインするにあたっても、職人的な技術だけで何年できるのか、ライターであればともかく、ウェブ関連ではどうなのか。
 たぶん、「けものみち」という発想がまちがっているのだと思う。そこは、ダブルトラックでいい、と思うのだ。
 渋滞の中を進むのは容易ではないが、確実に前に進むことはできる。それはそれで楽ではないけれど、リスクは少ない。そこにいながら、道を探し、ときどきわき道にそれてみて、また戻ってくればいい。
 組織の中で仕事をするのではなく、組織を使ってリスクを軽減しながら仕事をする。実は、梅田自身のキャリアがそういうものだったと思うのだ。
 そして、そのことは、ウェブ時代だからといって、大きく変化したものだとは思わない。ただ、やりやすくなったと思うだけだ。ネットさえあれば、地方でも仕事ができる。でも、できるだけじゃだめで、その価値を社会が認めないと、安く叩かれるだけだ。
 好きなことを仕事にするということのつらさは、昔からある。スポーツがそうだった。野球こそ、プロが成立しているが、ほとんどのスポーツはそうではない。しかも、スポーツのキャリアで60歳まで生きることは、ほとんど無理だ。一部なコーチや監督や解説者になるが、ほとんどはセカンドキャリアを考えなきゃいけないことになる。
 それは、ウェブのエンジニアも同じだし、ライターも同じだ。

 ぼく自身、ライターという職業にはこだわらないように考えている。そこのことにとどまらないさまざまな企画にコミットし、少しずつ実現させていくことで、その職業を厚みのあるものにしたいと思っている。
 でも、そうしたキャリアのデザインが、どれほど可能なのか、どれほど普遍的なのか。そう考えると、ぼくは多くの人に、フリーライターはやめておけ、としか言えない。

 ジャンクフードとジョルトコーラで生きるというのはどういうことか。それでなお、60歳を過ぎることは可能なのか。そうしながら、結婚し、子どもを育てるということもある。
 好きなことだけをやるわけにはいかないし、やりたいことは1つではない。そんなに人生はシンプルではないし、キャリアは簡単には構築されていかない。

 たぶん、実物の経済の中で、とりわけお金持ちになることは、もういらないと思う。でも、必要な経済の中に自分を置くことができるような社会ということは、考えなきゃいけない。そういった外部環境もまた、ウェブによって可能になった文化の発達を支援するものになるし、それは必要だ。けれど、それを個人におしつけることはできない。

 ウェブ時代は、梅田の考えていることとは違う部分があるとすれば、ウェブが思想ではなく、何か本質的なものを実現することができる技術やインフラの発達でしかないということだ。
 そして、「好きなことがやりやすい」からといって、「好きなことに集中する」のではなく、個人の中の「多様性」を生かすことができる、ということが重要なのではないか、と思う。その多様性の中に、個人の「ボランタリーにやってもいい好きなこと」がたくさんの資源として埋まっているし、それがウェブ時代だからこそ、容易に取り出せる、容易にアクセスし、コミットできるものになったのではないか。リナックスもウィキもそうした、お金とは別の価値観の中で成長していったものではないか、と思う。
 だから、言う。「けものみち」を安易に選んではいけない。ウェブ時代は、人を容易にダブルトラックで生きることができるようにしてくれたのだから。