年金バンドと光市母子殺人事件

tenshinokuma2008-04-24

 エイジアの新作「フェニックス」を買いました。で、聴いたのですが、何だかずいぶんと年寄りっぽく聞こえてしまいました。
 曲として悪くないと感じるところもあるんです。でも、元気が足りないっていうのかな。25年前のファーストアルバムを聴き返してみて、ますますそう思いました。
 まあ、昔のバンドが新しいものもないのに今でもやっているっていうのは、年金みたいなものではあると、そう思っているので、しかたないのですが、それでもたまーに、面白いものができたりします。
 というか、枯れた味わいになっていく人もいますしね。

 光市母子殺人事件の判決が出ました。そもそも、未成年が起こした事件に対して、処罰だけですむということがどうなのか、というのはありますし、加害者が過ごしてきた境遇が省みられることもなく、その結果としての事件の責任を命をもってとらされるということも、不条理なのではないか、とも思います、

 ただ、もうこのテーマはずいぶんとたくさん書いてきたので、べつのこと。
 この事件においては、遺族、すなわち被害者の夫/父親がしばしばメディアに登場し、発言してきました。今回、判決が出たあとも、記者会見を行っています。そこでこの遺族を見ていて思い出したのは、手塚治虫のまんがでした。
 手塚のまんがでは、しばしば事件の被害者が後に悪人になるというパターンが出てきます。たとえば、父親を殺された子どもが大人になって加害者を殺そうとする、けれども加害者には子どもがいて、遺族である子どもはめぐりめぐって悪人になっている、という。
 こうしたパターンは別に、手塚に限らず、よく使われますが、とりわけ手塚はかなり意図的にこうした物語を取り入れてきました。それが、ヒューマニズムを壊す装置であるかのごとく、です。
 さて、今回の事件の遺族の男性の場合はどうなのでしょうか。
 記者会見での発言でおやっと思ったのは、いくつかの矛盾した発言でした。
 要約します。
 ・加害者の元少年には更正の可能性があると思う。
 ・起こした事件の重大さを持って、死を持ってつぐなってほしい。
 ・胸をはって、死刑に臨んで欲しい。
 というあたりです。これは矛盾した内容です。
 更正の可能性があるとしながら、なぜ死を求めなくてはいけないのか、ということが第一点です。それは、社会的な利益ということを考えると、無駄な死を求めるということになります。むしろ、社会的な損失である、とすら言えます。それは故永山則夫の場合、国家的暴力によって書かれるべき文学作品が永久に失われてしまったという事例があります。
 したがって、遺族の「死をもってつぐなってほしい」というのは、実は社会的な要請ではなく、個人の感情の問題だということになります。
 また、「胸をはって、死刑に臨んでほしい」という発言は、やはり何か違和感があります。いったいどれほどの人間が、胸をはって死刑台に上ることができるのでしょうか。そのことによって全てが清算されてしまうのであれば、胸をはるということに、その人生において、どれほどの意味があるというのでしょうか。
 遺族の男性には申し訳ないのだけれども、こうした発言には、想像力の欠如を感じてしまうのです。そして、そのことが、手塚まんがに登場する、後に悪人となる被害者の子どもという姿に重なっていくのです。想像力の欠如は、残酷な発言を容易に行います。

 ですが、こうした遺族の、ある意味では無神経な残酷さを持った発言は、容認されているようです。背景として、この事件に対して、多くのメディアが関心をあおり、死刑という要求をあおってきたこととは無縁ではないと思います。今回の判決にあたって、極めて多くの人が傍聴を求めたということも、その異常さを示しているのではないでしょうか。
 多くの人が、スケイプゴートを求めている、その未熟さというのは指摘されるべきだと思います。そして、そうした多くの人々の後押しがあって、今回の判決になったのだとしたら、それは後押しした未熟な人々もまた、死刑という判決の重さを、その責任を感じ取るべきだと思うのです。

 加害者の元少年の肉親、親しい人が遺族の言葉を聞いたらどう思うのでしょうか。自分の子どもが死刑判決を受けたら、やはり「胸をはって死んでもらいたい」という発言に対しては、怒りを覚えるはずです。そんなことをしなくても、どんなにみじめに命乞いをしてでも、生きていて欲しい、たとえ一生刑務所から出られなくても、命をつないで欲しい、そう思うのではないでしょうか。そうしたコンテクストにおいて、この発言の残酷さが示されると思います。

 同じ日に、土浦では連続殺傷事件の現地調査が行われました。加害者は死刑になりたいがために、事件を起こしたといいます。
 どちらの事件においても、被害者のことを思うと、本当に胸が痛みます。「たかだかそれだけのことで、命を失った」のですから。だからこそ、その程度のことで命を失わずにすむ社会であって欲しいと思います。