こちら葛飾区水元公園前通信709

 昨日(12日)ははじめて、会社の近くの銭湯に行った。場所は文京区本駒込の日の出湯。
 マンションの地下に相当する部分が銭湯になっている。といっても、新しいわけではない。階段を降りて銭湯に行くと、どちらが男湯だかすぐにわからない。
 石鹸を買い、タオルを借りて入ったのだけれど、このときはぼく以外にお客はいなかった。女湯からは音がしていたのだけれど。
 浴室は、コンクリートが剥き出しの天井があるし、ペンキで描かれた海の絵ははげかかっているし。そこに、「温暖化 止めるアイデア みんなでなんとか」などという標語が書いてある。まあ、銭湯にみんなで行けば、給湯のエネルギーが節約できるし、銭湯によっては廃材を燃やしているので、カーボンニュートラルなんだけれども、まあいいか。
 カランはすごくクラシカルなもので、お湯を押しても生暖かい水しか出てこない。まあ、客がいないから、お湯までなかなかたどりつかないのかもしれないけれど。真ん中の列には鏡がない。まあいいんだけど。
 浴槽は二つ。上がり湯用の深いのと、ジェットがある浅いのがあるだけ。
 お湯は熱めだったので、かなりうめてしまった。
 サウナは別料金で270円。けっこうせまい。もちろん、入らなかった。
 さて、このお風呂屋、何か物足りないなあって思って、よく考えてみたら、体重計がなかった。だめじゃん、それ必需品だよ。
 でもまあ、おやじは感じ悪くないし、まあ、元気な間はやっていようかな、というところかな。

 そんなわけで、林雄二郎の「情報化社会」(オンブック)を読んだ。原著は69年に講談社から出たもので、その復刻版ということになる。38年前の情報化社会かあ、と思うと、考えてしまう。
 復刊をはたらきかけた橘川幸夫は、これは今でも通じる本だということを書いている。けれども、それ以上かもしれない。
 第1に、情報化というものがどういうものかというのは、林の指摘の通りだと思う。モノそのものよりも情報を消費しているというのは、その通りだし、そのことが大切でもある。
 それ以上だというのは、こういうことだ。38年の間に、林が予想した形でコンピュータが進化したかというと、そうではない。林はでかいコンピュータが各家庭にあるというより、端末があってみんなでコンピュータを使うということを想像していたけれど、現実にはでかコンピュータが家庭に来てしまった。もっとも、膨大な情報はインターネットによって供給されるので、それはある意味正しいのだけれども。
 余暇が大事になるということだったけれど、確かに週休二日にはなった、でもどうも余暇というのが、そう単純なものではないな、と思っている。
 そうしたずれのいちいちが、林の言う情報化と現実に起きてしまったことのずれになっているし、そこにまだ、修正の余地があるんじゃないかって思ってしまう。
 とはいえ、こうした点で「ウィキノミクス」が重要だと思うのは、情報化によって、いろいろなものが「公共財」になってしまったっていうこと。というか、情報が公共財であれば、独占されることなく、使える。そのことに、情報化の豊さのヒントがあるし、そこがまだまっとうされていないんじゃないか、そんなことを考えるわけだ。

 そのコンピュータつながり、ではないのだけれど、アルフレッド・ベスターの「コンピュータ・コネクション」(サンリオSF文庫)も読んでしまった。なんか、めちゃくちゃな話だというか、未来、個人というのは、情報なんだっていう、そういう設定。そりゃ、そうなんだろうなあ、と思う。まあ、「セカンドライフ」がはやる理由もわからないでもない。
 でも、思うのだけれど、アンパンマンの世界で「セカンドライフ」ってやってみると、けっこううけるかもしれない。それは、けっこう本質なんじゃないか、っていう。
 次は「ゴーレム100」を読もう。

 東京ヤクルトは、8連勝できなかった。残念である。