別にテツではないのだけれど、アニメ化されてちょっと話題になっていた「鉄子の旅」を見た。先週は見そこなっていたので、今回は第2回である。
鉄道マニアに連れられて女性マンガ家と編集者が鉄道に乗るという、ただそれだけなんだけれど、今回は130円切符で東京−八丁堀間を遠回りする、一都六県大回りの旅。東海道線から鶴見線の支線を通って京浜東北線、根岸線、相模線、八高線、両毛線、水戸線、常磐線、成田線、総武線、京葉線と通っていくという、それだけである。
でもまあ、けっこう見ているだけで楽しかった。鶴見線支線の浜川崎の乗り換えは、同じJRなのに改札を出なきゃいけないという不思議な駅だし、というか支線の電車はワンマンなので、鶴見でも改札を通るという、そういった難関を過ぎながら、息子もよく知っている我孫子の駅なんかも出て来たりして、とまあ、そんなわけで、テツではないのに楽しめるというものであった。
ところでこのアニメ、放映しているのはケーブルTVのファミリー劇場なのであった。ケーブルTVに契約しているかいが、ちょっとはあったな。
次回は上越線、土合のあたりという予告。あのループになったトンネルとか出てくるんだろうなあ。
この土日は、水元公園でよく遊んだといったところ。小合溜という池に網を入れると、スジエビがたくさん採れた。ぼくじゃなく息子がやっても。でも、スジエビはとび跳ねるので、バケツに入れておいても、飛び出してしまう。かくして、飼うのはけっこう難しい、というか無理。
ヤマモモはほとんど終わっていたんだけれども、どうにかまだ実が残っている木を見つけて、多少はとった。これはヤマモモ酒になるのであった。庭のラズベリーも食べきれないので一部はラズベリー酒になっている。ということで、夏の終わりくらいには、ちょうどいい感じで果実酒になっている、はず。
旧水産試験場では、やたらと昆虫ばかり見ていた。トンボだけでもギンヤンマにウチワヤンマ、ショウジョウトンボ、シオカラトンボ、コシジロトンボ、アオイトトンボ、チョウトンボ。カナブンも見つけたし、バッタもつかまえた。金魚展示場の裏にバナナが生えていて、とはいっても、実はほんとうに小指くらいのしかついていないんだけれども、でもまあバナナだよなあって思って、息子と食べてみたけれど、まずかった。
ついでに東水元公園(近所の小さな公園)でも、娘とサッカーをしたりフリスビーをしたり。とまあ、こんな感じでこの土日も過ごしていたのであった。
本広克行監督の「UDON」をビデオで見た。TSUTAYAがレンタル半額だったので。小西真奈美が出ているので、前から見たいと思っていたのだけれど(本気にしないでね)。
前半は、ユースケサンタマリアがニューヨークから戻ってきて、タウン誌でうどん巡礼をヒットさせるという話。小西はそのタウン誌の編集者なんだけれど、黒ぶちのメガネをかけて、なんかちょっとさえない感じがとてもいいなあって、いうのはどうでもいいんだけれども。
後半は、父親が急死し、うどん屋のあとを継ごうという展開。すでに、讃岐うどんブームは終了し、その中で親父の味を復元させようする、ユースケなのであった。
人情喜劇といえばそうなんだけれども、うどんをつくるしか能のない親父が、だからこそそこで不器用に生きていくというのは、それはそれでほっとする風景で、とりわけ近所の子どもが学校の帰りにうどんを食べていくという風景が、何かいい。伝説の名店なんていうのではなく、あたりまえにうどん屋があるだけっていう。
ぼくも娘も、見ていてコシの強いうどんを食べたくなってしまった。
昔、四国電力の取材で出張に行ったとき、広報部の人が親切に、「ホテルの朝食を食べるより、ここでうどんを食べたほうが良いですよ」とFAXしてくれたこともあったっけな。そういう心遣いって、大切だと思う。
なお、かみさんは香川大学の学生だったので、ちょっとだけ高松あたりの解説を子どもたちにしてくれた。もっとも、メインは丸亀とかあのあたりなのだそうだけれど。あと、讃岐富士は登るような山じゃない、とか。そうなの?
今、小森陽一と市野川容孝の「難民」(岩波書店)を読んでいる。思考のフロンティアシリーズ第2期の最終巻で、しかも執筆者が当初の予定と変わっていて、編集委員の二人が代筆することになってしまったというようなものなのだけれども。
でも、これを読んでいてあらためて、このシリーズがぼくに与えた影響というのは大きいと思った。ぼくは日本国憲法について、第三章はさらに進化させるべきだし、「国民」という枠組もなくしていくべきだというようなことを書いたけれども、まさに難民は国民という枠の外にいる人たちなのである。そして、とりわけこの国は、難民を受け入れず、それどころか国際的な非難を受けるほどに排除し、さらには家族主義に基づく制度のもとで、国籍を持たない子どもすら生み出している。そして現在、ネットカフェを寝場所とする難民を生み出すような社会なのである。
そうした違和感を違和感として捉えるだけの、違和感を明確にするだけの何かを、このシリーズは与えてくれたのではないか、と思うのである。