こちら葛飾区水元公園前通信704

 ちょっとこれはひどいんじゃないかっていうのが、先週の日曜日6月3日付けの朝日新聞の300日問題をめぐる西川京子の主張。
 300日問題というのは、離婚後300日以内に生まれた赤ん坊は前夫の子となるというものだけれど、これじゃ少なくとも早産の場合は対応できないし、何より実の父親が戸籍上実の父親になれないということになる。これを、100日にしようという法改正が提案されたけれど、長勢法相をはじめとする保守的な自民党議員の反対によって、見送られた。西川京子はそうした議員の代表的存在。
 ちょっとひどいんじゃないか、というのはこういうことだ。西川の主張は、「少数派にあわせる必要はない」というものなのだ。多数が両親がそろっている家族だし、それを基準にすればいい、ということだ。
 こういう発想しかできない人を議員にするのもどうか、とは思う。明らかに、現行の制度で不利益を被っている人に対し、少数派だからがまんしてね、などとどうして言えるのだろうか。ものごとを多数決で決める、ということではないのだから。
 300日とか言う以前に、西川京子という政治家は人々を不幸にする発想しか持てない。
 これは前にも書いたことだけれど、自民党の保守的な家族感を持った政治家は、「家」がその構成員である「家族」より優先すると考えている。家制度という規範があり、だれもがこの規範に従うことで、「国」の秩序が保たれると考えている。その延長には、「国」はその構成員である「国民」よりも優先する、という考えがある。だからこそ、国民は時に「国」のために死ぬことを強要される。
 今日6月9日付けの朝日新聞萱野稔人の意見ではないけれど、「国家」は社会において「暴力」を独占する存在だ。逮捕も刑の執行も国家のみが行う。そして、個人に「家」を強要しているのも、それ以外の形態に不利益を与えるのも「法」という形で暴力をふるっている、それが日本の国家だ。当然、「家」単位の戸籍制度、「嫡出子」と「非嫡出子」の選別という暴力もまた、そこに含まれる。すべての人はそのことに自覚的であるべきだ。

 人を不幸にするような思想しか持てない人間は、政治家にしてはならない。
 こうした人を政治家にしておけば、格差が拡大する。少数派(人数というだけではなく、社会的に力の弱い人々)は切り捨てられるのだから。

 格差といえば、ジョセフ・スティグリッツとアンドリュー・チャールストンによる「フェアトレード」(日本経済新聞出版社)も読んだ。サブタイトルは「格差を生まない経済システム」
 G8サミットでは今回も「グローバル化」に反対する抗議行動が見られた。実際には、今回のサミットは経済問題はあまりメインにはならず、気候変動問題ばかりが注目されていたわけだけれども。
 ともかく、グローバル化に反対するといえば、WTOの途上国の姿勢ということになる。そして、この分野はとにかく、松岡前農相ではないけれど、農業問題ばかりがクローズアップされている。
 本書は簡単に言えば、WTOそのものがあまりに途上国に不利なように運営されているということを論証したもの。農業に限って言えば、後発途上国の主要な輸出品目は農産品であるが、一方先進国の農業は補助金で保護されている。それ、ダメじゃん。そうでなくても、途上国にばかり厳しい要求をしており、しかもそのことによって経済全体が非効率になる。関税が主な国家収入だった国にとって、関税撤廃は財政状況を悪化させるし。とか、そういったこと。
 反グローバリズムというけれど、本当はグローバリズムが問題なんじゃなくって、不公平なグローバル化が問題なのだということだ。

 G8で気候変動ばかりが注目されたというのは、一つはそれが深刻な問題だからということがある。同時に、G8そのものが、世界経済に与える影響が小さくなっているということもある。たかだか8カ国でそんなことを決められても困る、というものだ。
 深刻な問題ということで言えば、IPCC第4次報告書をはじめとする最近の報告書が気候変動問題の緊急性を語っているし、アメリカにおいてさえも、一昨年のハリケーンカトリーナ以降、世論の関心が高まっているため、ブッシュ政権ですらこれを無視できなくなっている、というのはある。
 それにしても、安倍は強気であいまいな主張をし、それが受け入れられたということで喜んでいる。けれども、2050年二酸化炭素半減といっても、何よりまず、2012年までの目標達成がおぼつかないし、2050年には安倍だって生きているかどうかわからないから、責任を問われないですむ。そんなものを、まともに信用できるわけがない、と思うのだけれども、どうだろうか。

 気候変動問題もまた、明らかに格差を拡大する。途上国にこそ深刻な影響を与えるのだから。そして、そうした途上国の環境難民が、例えば日本に来たときに、やはり低賃金の労働者と職を奪い合ったとしたら、国内のワーキングプアと移民が対立することになる。貧しいものだけが争うということだって考えられる。
 そうした将来を、ぼくは支持したくない。

 ということはさておいて、金原ひとみの「アッシュベイビー」(集英社文庫)は、ゆがんだ、恋愛小説ですらない、そういう小説。バロックといえばそうなのかもしれない。ディスコミュニケーションの中で自己を他者によって破壊されたい、そういう衝動の中にあるのがヒロイン。とはいえ、主人公の同居人のホクトは6ヶ月の女児をさらってきてずっともてあそんでいるあたり、十分鬼畜だし、主人公がどうしようもなく魅かれる村野もまた、けっこう病的で鬼畜な反応をしている。まあ、だからこそゆがんでいて、どこともつながらないのだろうけれども。そして、あとは灰になるだけ。
 藤野千夜の「ベジタブルハイツ物語」(光文社文庫)は、なんか登場人物が多い短編で、うまくはまれなかった。ごめん。いろんな人がいて、すれちがったりして、大変だなあって思うけれども。

 ということで、最近、心を癒してくれるのは、Annie Haslamの「Woman Transcending」だったりする。アニー・ハズラムのレア音源を集めたものなんだけれど、本当にCD化する機会がなかっただけ、みたいな、けっこういい曲が入っていて。ぼくにとって、アニー・ハズラムというのは、ルネッサンスではなく、「Moonlight Shadow」のカバーを含む2枚目のソロ「Annie Haslam」あたり。本当にこれは大好きなアルバムなんだけれど、本作の収録曲の中ではやっぱり、この直後のものがいいなあ、なんて思ったりもする。
 スティーヴ・ハウとの合作とか、亡くなった兄のマイケル・ハズラムとのデユエットなんかもあったりして。アニーの音楽の旅というそういうサブタイトルもその通りだなって思うのであった。幅広い音域と力強い声は、シンプルな曲でもかえって聞かせてしまうなあ、と。

 少年法が改正されたり、光市母子殺人事件が再審になったりという。
 事件そのものは痛ましいものだったけれど、第一に求められるものは、被告の死刑などではなく、被害者の家族のケアであり、いかにしてこうした事件を防ぐのかということ。
 福島県の母親殺人事件にからんで、加害者である少年の心の闇は「わからなくてもいい」と石田衣良はR25の巻末エッセイで書いていたっけ。たぶん、そうなんだろう。でも、だからこそ、「心の闇」を勝手に葬り去らないで欲しいとも思う。
 少年法の改正。より低い年齢の子供に対しても少年院に入れることができるようになった。確かに低年齢の児童による犯罪はある。けれども、そもそも、児童は「犯罪を犯すこと」からも守られるべきではないのか。
 犯罪に対し、厳罰を求める風潮があるけれども、これにはくみしない。少年犯罪はすでに減っているのだし。厳罰化したところで、犯罪を減少させることにはならない。
 そんな状況の中で、「ブラックジャックによろしく」を13巻まで読んだ。精神病棟編だけれど、統合失調症が治ってきた患者が、なかなか社会に受け入れられないという問題を扱っている。かつてのように、拘束したままにしておけば、精神疾病を持たない多数派は安心して暮らせるのかもしれないけれども、患者は幸せになれない。そして、多数派の人もいつ少数派になるのかわからない。
 実は西川京子ではないけれど、日本の社会は常に少数派を排除しようとしている。これも以前書いたけれど、オウム真理教の事件のあと、多くの自治体が信者の住民票の受け入れを拒んだし、住民もこれを支持した。でも、住民を受け入れるリスクはさほど高くなかったと思う。よく忘れられるのは、犯罪の加害者の家族もまた、少数派だということだ。

 喜国雅彦の「日本一の男の魂」(小学館)が20巻で完結。最後はかなりパワーダウンしていたな。