こちら葛飾区水元公園前通信685

 通常国会が始まった。
 悪い方向に暴走している日本の政治だけれども、そこは変わりそうにない。
 宮崎県でそのまんま東が知事選で当選したけれども、あいかわらず、無党派にしか期待できない状況というのは、さびしい。
 別に、政党を支持しようというのではない。そうではなく、支持できるものが何もないということなのだ。
 そのまんま東が知事として支持され、評価できる政策を進めてくれるのであれば、それはそれでいい。ただ、人々が求める政策が、政党という形になっていかない、ということが問題なのだ。

 今回の国会は、安倍晋三いわく、「教育再生国会」だという。
 安倍については、以前も書いたけれども、政治家としてのテーマは、秩序ある1945年以前の日本を取り戻すということだ。権利よりも義務が優先し、日本という国において、マジョリティがアイデンティティで満たされるということ。これにより、大多数がハッピーな気持ちになりながら、格差を拡大すること。特権階級を明確にしても、そこをアイデンティティとして、人々が「誇り」に思うことであれば、不満は解消される。むしろ、不満は外部に向かう。ナショナリズムがなせるわざだ。
 「かつてはそうだった」ということを、過去を理由に正しいものとしていく、そうした発想が、すべてを1945年以前に戻そうとする。生活よりアイデンティティを満たす政治が、安倍のテーマなのだ。
 だから、小泉純一郎と違うのは、経済政策がないということ。小泉は良くも悪くも、竹中平蔵を抱えていたし、その政策が正しかったとはいえないけれども、でも、日本をどうしていくのか、というカラーを出すことができた。
 もちろん、小泉の政治家としてのテーマは「郵政民営化」だけだったといっていい。それは、その延長線上として、地方への配分を都市に戻すことで、都市に住む「マジョリティ」の支持を得ていたし、それは地方に基盤を持つ「抵抗勢力」とよばれる、田中派竹下派橋本派の流れをくむ政治家の利権の剥奪ということでもあった。
 利権の剥奪に、人々は賛同したけれども、それは「社会主義的な資源の再配分」という機能を失われることでもあった。
 結局、小泉は「郵政民営化」というワンテーマを竹中と組み合わせることで、より大きな政策に見せることができたし、それを劇場化することで、生き延びてきた。
 さて、安倍である。彼のテーマもまた、「郵政民営化」ほど、あまり緊急性のないテーマである。そして、経済政策によりリンクしにくいものでもある。
 誰もが、「教育再生」も「憲法改正」もすぐに取り組むべき政治の課題だとは考えていない。今のところ、足元の経済、とりわけ格差の拡大に対し、何の方針も示していない安倍に対し、当然のように支持率が下がっている。
 問題は、民主党である。もう終わったような政治家が3人集まって、嵐の海の中でコントをやっているというのはいかがなものか。岡田も前原も評価しようとは思わないけれども、それにしても人材がいないというか(個人的には、枝野幸男あたりに注目はしているけれども)。松下政経塾の使えない若手ばかりじゃどうしようもないし、というところか。
 今回の通常国会は、開始前は「雇用国会」だと言われていた。ホワイトカラー・エグゼンプションが話題になっていたが、その他にもパートや派遣の待遇の向上など、テーマは多かった。ホワイトカラー・エグゼンプションが先送りになったからといって、他の政策が先送りするということにはならないはず。だとすれば、民主党をはじめとする野党は、「教育再生国会」などという土俵に乗らずに、「雇用国会」で押し通すべきではないのか。弱体化しているとはいえ、労組もまた民主党の支持母体の一つである。労組の組織率がいくら低下しているとはいえ、むしろここは労組が変わるチャンスでもあるはず。民主党には横道も赤松もいるだろう、ということだ。
 今のまま、安倍のテーマに乗ってしまえば、「郵政民営化」のときの選挙と同じく、誰も関心のないテーマを背景としたドラマの中で闘うことになってしまう。あのときの本当のテーマは、「郵政民営化」などではなく、その背後で進んでいた別のものだったというのに。民主党もまた、憲法改正という土俵に乗ってしまっている以上、その土俵で戦う限りは、この政党の中に「ミニ自民党勢力」を作り出すことにしかならない。その背後で、選挙後にふたたびホワイトカラー・エグゼンプションが浮上し、再チャレンジどころか再格差拡大社会が待っている、ということになる。

 市野川容孝の「社会」で示されていることは、けっこう重要だ。政治が「ナショナリズム」を主張しながらも、実は資本は国境を容易に越える。
 日本経団連御手洗ビジョンが屈辱的なのは、人々に対して「国家への帰属」を求めつつ、資本はそこに帰属せず、グローバル化に向かうということなのだ。人をバカにしているのだ。
 とはいえ、ぼくは資本が国家から出て行くことを止めようとは思わない。そうではなく、人々にナショナリズムを求めないでほしいということだ。「義務」ではなく、まず「権利」なのだ。そして、「権利」は、人権外交が行なわれているように、国境を越えることができる。例えば、労働ということにおいて、世界的な基準ではかられるべきであり、同じ仕事を日本人がしようと、フィリピン人がしようと、中国人がしようと、アメリカ人がしようと、ブラジル人がしようと、同じ待遇でいいではないか、ということでもある。
 ホワイトカラー・エグゼンプションがその本質が残業代カットであり、そのことが相対的に、残業代をもらっている部下よりも高い収入をエグゼに提供していたという構造をこわし、残業代のつかなくなった部下の収入が下がれば、アメリカのエグゼと異なり、人事権などを持たない名前だけの課長クラスの収入も下がる、その上裁量制によって、これまで以上の仕事を「これ、やっといてね」ということだけで押しつけられる、ということなのだけれども、それが日本の人件費の高さを解消する安易な手段でしかない、ということなのであって、本質的に「自分の仕事が評価される制度」とはほど遠いということに対する、対抗する動きとなるはず。
 にもかかわらず、格差が拡大したときに、ナショナリズムが整備されていれば、低所得者の不満は外側の、仕事を奪い、あるいは労働単価を引き下げる国外に向かうことになる。それが、御手洗ビジョンであり、これと共鳴する、安倍の政治のテーマということになる。

 とまあ、そんなことを思うのであった。

 地球温暖化問題というか、気候変動問題については、何年も前に予想していたことの通りになっている、と思う。
 2000年頃、いわゆる日本の産業界は「アメリカ追随」の「様子見」戦略をとっていた。でも、冷静に考えれば、気候変動が進む確率は、いくら不確定要素があったとしても、とても高いものだった。だから、いずれにせよ、対応しなくてはいけない確率が高かったし、だから早めの対応と、少なくとも覚悟はしておくべきだ、と思っていた。
 といって、保守的な意思決定しかできない日本企業が、気候変動対策を積極的にできるとも思っていなかったので、まあ、取り残されるだろうな、と。
 そんなことを、今朝の朝日新聞に掲載されているダボス会議の記事を読みながら、思うのであった。

 気候変動問題は確実にリアルに深刻さを増しているし、こうなると、「経済か環境か」という議論は成立しなくなってくる。環境が破壊されることによって、経済が破壊されるのだから。
 「経済か環境か」ではなく、環境という外部コストを内部化する、そのあたりまえの作業をしなきゃいけないね、ということになるのだけれど。

 とまあ、そんなわけで、仕事がらみではあるのだけれど、末吉竹二郎と井田徹治による「カーボンリスク」(北星堂書店)を読んで、そうだよな、と思うのであった。
 念のため、末吉はUNEPで金融関係の仕事をしている人で、井田は共同通信の記者。井田はたぶん、日本でもっとも京都議定書に詳しいジャーナリストの一人だと思う。また、ビジネスセクターの視点からこの問題を公平に見ることもできる人だ。
 たぶん、地球温暖化問題を無視してはビジネスはできないし、それはビジネスチャンスに変えることもできる、ということだ。
 もっとも、外部コストを内部化したときに、生産性が下がらない保証はない。とりわけ、想像力がなければ。

 ところで、北星堂書店の本をもう2冊、読んでいる。新田義孝の「小説 四日市大学新田ゼミ」と「21世紀改造」。いただきものなのだけれども、実は新田にはかつて某出版社に勤務していたときに、「ドリームプロジェクト」という本をプロデュースしたことがあった。敬称をつけていないので、何だかぼくが偉そうであり、本来ならよく知っている方なので、新田先生とよばなきゃいけないのだけれども、まあ、そこはそれ。
 ということで、要は、自分がプロデュースした本の続編を読むことになろうとは思わなかった、というだけのことなのだけれども。

 仕事がらみでは、大藪春彦の「野獣死すべし」(角川文庫)なども読んでしまった。何でこれが仕事がらみなのかは、さておいて。
 意外かもしれないけれども、群れることが嫌いなぼくとしては、共鳴するところもないではなかった。
 それにしても、数十年も前の日本の風景は、なんか面白いというか。
 ご都合主義の展開といい、そんな簡単に殺すなよ、というあたりといい、今後も読みたい作家ではないな、というわけなんだけれども。

 ついでに、ビミーの書評のために、竹林俊浩(鬼山)の「酔狂源氏物語」(郁友社)なども読んでしまった。書評を書かねば。

 山田芳裕の「へうげもの」の4巻が出た。いよいよ、古田左介は古田織部である。偉くなってしまうというか、急に自信を持っていく。いっきのドライブがかかっていくのであった。完璧なものではなく、ずれたものに美を見出していくのである。そこから天下をとろうという野望なのであった。

 古田織部も40歳を超えている。