こちら葛飾区水元公園前通信683

 あけましておめでとうです。
 今年の正月はいかがおすごしでしょうか。こちらはあいかわらず、のんびりと過ごしています。香取神社で田楽を食べたり、しばられ地蔵で獅子舞を見たり、二日には朝風呂に入ったり、などなど。大晦日には犬に噛まれたし(犬歳のオチがこれかよ)。

 今年の七福神めぐりは、隅田川七福神でした。本所吾妻橋から鐘ヶ淵まで。神社やお寺やその他をまわったのでした。おかげで、うちには歴代七福神が飾ってあったりします。
 隅田川七福神は、三囲神社からスタート。ここに大国神と恵比寿神がいるので、残りは5ヶ所ということになります。三囲神社はお稲荷さん系で、隣にある牛島神社よりもずっと小さいんですけれども、まあ、それなりに由緒正しそうです。
 七福神というと、色紙にご朱印を押してもらうんだけれども、隅田川の場合、色紙は安いです。なぜなら、何も印刷されていないから。それぞれの場所で、神様の名前を書いてもらった上で、ご朱印をいただくシステム。したがって、1ヶ所500円と高い。その分、ご利益を期待してしまう。また、そのため、七福神めぐりは1月7日までの期間限定なのである。
 途中で食べたのは、言問団子。6個で1100円というのは、かなり高い。けれども、上質な小豆あんや白あんにくるまれた中の団子は、ふわっとやわらかい。黄色の団子はもっとちがったものらしいのだけれども、こっちは食べていない。これがよくできた和菓子だということは、認めてしまう。けれども、団子1個が200円近いというのは、高いかも。
 一方、吉備団子の方は、5本で250円。団子そのものは指の先ぐらいの大きさしかないけれど、ゆでたてにきな粉がまぶしてあって、これはこれでうまい。地蔵堂の前で買ったあと、向島百花園の前でも再び買ってしまった。
 最後の多聞寺では、入口にいきなり仏の教え、ならぬ日本国憲法第九条が貼られていた。殺生を禁じる仏の教えを具体化したもの、といえばその通り。確かに、仏門にあるものにとって、今、もっとも語りたいことかもしれない。ここで狸のお守りを買う。

 この休みの間、「涼宮ハルヒの憂鬱」のDVDを借りて見ていた。孤島症候群まで見た。
 「げんしけん」のとき、大学時代ってこんなんだったかも、という思いがあったのだけれども、じゃあ高校生のときはSOS団だったかというと、多少はそうかもしれない。あんなに行動的でこそなかったけれど、というかそういうことができず、毎日だらだらと過ごしていたかも。天文同好会といいつつ、昼間は星が出ているわけじゃないから、トランプをしていたり、とか。いや、SOS団の部室が文芸部だっていうのも、けっこう微妙だったりする。

 ということで、まだ年賀状は書いていないし、お年賀の牛乳通信も出していません。去年はとうとう出さなかったけれども、今年は出します。ちょっと待っててください。

 最後に、教育基本法のこと。
 これが改正されてしまったのは、昨年最大の痛恨なのかもしれない、と思いつつ、でもぼくは何もしていないので、偉そうに言えることなど、少しもないのだけれども。
 このことで、すごく思うことっていうのは、「なぜ人は教育について語りたがるのか」ということ。ぼくは、正直なところ、教育について語る人が好きじゃない。「教育はこうあるべきだ」とか「今の教育はまちがっている」とか、軽軽しく言わないで欲しいと思う。
 でも、どうしてそう言ってしまうのか。それは当事者じゃないからだ。いくら「教育がおかしい」と発言しても、ほとんどの人はそこにコミットすることを求められずにすむ。たいがいの問題の場合「じゃあ自分でやってみろよ」と言われるのがオチなのに。
 だから、教育については、すごく発言しやすい。しかも、無責任な発言が許されてしまう。そういう構造なのだ。
 そういう人には、提案しておきたい。教育にはコミットできないわけじゃないっていうことを。地域社会の中で、子供会の役員や、お祭りの子ども神輿・山車を手伝っている人もいる。少年野球を指導している人もいるし、学校の放課後、子供たちといろいろなことに取り組む人もいる。そうではなくたって、子どもの親であれば、自分の子供を含めた、たくさんの子どもとつきあうことになる。そういう形で、子どもと付き合ってみればいい。そういう形で責任の一端を担うことで、子どもたちの生をより豊かなものにできるのであれば、無責任な発言にはならなくてすむ。

 子どもときちんと付き合っていれば、今回の教育基本法がいかにばかげたものだったか、わかるはずだ。教育は行政にゆだねられるものではないし、行政がコントロールするべきものでもない。基本的な能力、例えば演算能力や読解能力、身体能力、地理や歴史や科学がもたらすパースペクティブ、絵を書いたり楽器を演奏したりする基本的技術、それらは身につけたほうが良いものだろう。だが、思想信条やアイデンティティなどは、それは個人の内部の、プライベートなものだし、それはさまざまな形で提供され、個人がつくりあげていくものでしかない。家族や国に関する身体感覚とでもいうのか、そういうものだと思う。それは、基礎的なものを超えてしまうからだ。ピアニカやリコーダーを練習するのは、まあ、いいかもしれない。でも、ヴァイオリンやトランペットは必修のものではないように。他人を思いやる気持ちは必修かもしれない。でも、国を思いやる気持ちはそうではないし、たぶん、家族についての定義も同様(誤解をしないために書くと、家族というのは、アイデンティティがおよぶ範囲ということ。自分の親や子どもにアイデンティティが及ばなければ、それは家族とはいえないし、それは強制できるものではない。祖父母、叔父叔母の例を考えてみるとわかる)。
 そうしたことが、すべて、行政サイドの都合でできてしまう、というのが、今回の教育基本法改正なのだと理解している。だから、わけのわかんない条文が後ろの方で増えている。

 変わってしまったものはしょうがないのだろうか。
 実を言うと、それ以前から、しょうがないなあ、とは思っていた。こんなに簡単に教育基本法が変わるのは、誰もが改正に賛成していたからだとは思わないけれども、教育基本法が目指していた思想についても誰もが理解していたわけではないからだ。基本的な人間の権利というものがどういうものなのか。教育を受ける権利とはどういうものか。それは、理解されていないし、その結果が「権利ばかり主張して、義務はどうした」っていう、実は無責任な議論の延長にあることだからだ。コミットしなくて良い人たちに言われる「現場」っていうのは、実は「いじめ」の構造と変わらない。そういうことが平気でできてしまう人がマジョリティであれば、それはもはや改正など見かけ上のことでしかない、となってしまう。
 前々から、「死刑廃止」ということを話してきたけれども、ここでも「当事者性」がないから、いくらでも死刑賛成を発言できるという構造だった。死刑が廃止されるほどに、相手を思いやる気持ちがなければ、教育基本法は戻らないと思う。

 とまあ、そういうことで、今年もよろしく。