こちら葛飾区水元公園前通信669

 昨夜はうっかり、「鉄板少女アカネ」を見てしまいました。鉄板料理人の主人公が父親を探して旅に出る、そこで料理対決をするという、そういう話です。だからどうしたっていうわけではないですけれど、けっこう娘のツボにはまったみたいで、一緒に見ていました。
 豚玉にはじまり、豚玉に終わる、というわけですか。でも、豚玉の歌は、なんかいいんです。

 それにしても、今までは、イラク派兵なんかでも、国際社会に歩調を合わせてという名目でやっていたのに、今回は国際社会はさておいて、制裁、である。まだ何も明確ではないのに、周辺事態だって語る閣僚もいる。いいのか?
 しかも、こんな状況が支持されて、W補選で自民優勢?

 そんなわけで、橘川幸夫の「風のアジテーション」(角川書店)を読んだ。橘川の2作目の小説。舞台は1969年頃。大学紛争とかやっている時代。都電は廃止されようとしているし、ロック喫茶なんかが登場しはじめた時代。フランスでは5月革命とかやっていて、「フランシーヌの場合」が日本でヒットした。この時代の記憶を、ぼくはかすかに持っている。まだ小学生になったばかりだった。
 うまく書けないけれども、時代の空気というのは、ときにそこに立ちかえってみる必要があると思う。そうしないと、どこでボタンをかけちがったのか、わからないし。これからリタイアする団塊の世代のメンタリティだって失われていくものだろう。

 岩波書店の「図書」の10月号に「身辺雑記にかける思い」という斎藤美奈子のエッセイが掲載されている。斎藤は以前は、身辺雑記のエッセイなんて楽そうでいいなあ、と思っていたそうだけれど、実はそうではなく、身辺雑記を書くために旅行だってせっせとしなきゃいけないっていう。だったら斎藤は、資料を読み漁っていた方が良いということである。そしてこのエッセイを書くにあたっても、50本もの身辺雑記を読んだとか。
 まあ、ブログを書く人も同じかもしれない。毎日ネタをさがし、それがしんどい人はぼくのように読んだ本の記述ばかり、だという。まあ、しょうがないですね。でもまあ、ビミーに「今夜も酒は抜けない」を毎月書いていたときは、身辺雑記のノリだったんだっけ。
 そんな斎藤の「文壇アイドル論」(文春文庫)を読んだ。作家論論ということで、村上春樹よしもとばなな田中康夫がいかに論じられてきたか、あるいはこなかったかを論じた本。やっぱり斎藤はたくさんの文献を読んで、これを書いてます。村上春樹がRPGのようにみんなでせっせと謎を解くようにでいている本であるというのはその通りで、最近も村上春樹論が何冊も出ている。「エヴァンゲリオン」といい勝負かもしれない。村上龍と比較されるのは、村上春樹ではなく田中康夫だという指摘も、すごく正しいと思う。村上龍がせっせと経済について論じる一方、田中はすっかり政治の世界に入りつつも、それを距離をとって見ている。政治は実業というより、田中の持論の実践という。

 とそんなわけです