こちら葛飾区水元公園前通信660

 探していた「あずまんが大王」のCD「うたいましょ」を、今日はBGMにしています。「空耳ケーキ」も「Raspberry heaven」もとても変なテイストの曲で、まあ、何というか、その、頭のねじがはずれていくみたいでいいですね。

 冥王星は惑星ではなくなってしまいました。まあ、今まで惑星だと思っていたのが、違うって急に言われても困るんでしょうけど。もっとも、かなり以前から、惑星じゃないって考えている天文学者は少なくなかったですけどね。
 科学的に惑星というものを定義したら、冥王星は違いました、ということでは、これは当然のことなんだと思う。でも、何だかメディアの報道は、冥王星がなくなってしまうみたいで、変だ。教科書から冥王星という言葉が消えてしまうっていうのも、そういう単純なことなのかなあって思う。
 いくつか理由がある。冥王星がなくなる、というのは、ある意味では事実なんだと思う。というのは、惑星ではなくなることで、多くの人の心の中で占める位置から消えてしまうのだから。そのことが、直感的に、すごくさびしいのだと思う。
 でも、物理的には、冥王星はなくなるわけではない。そこにしっかりと冥王星という名前で存在している。惑星じゃなくなったから、名前を変えようとは、誰も思わないと思うのです。そこには、やはり天王星海王星とはまったく違う種類の、矮惑星として、氷のかたまりとして、カロンとともに存在しているわけです。
 冥王星というのは、海王星の外側にたくさん存在すると言われている、氷の固まりの矮惑星の中でも、最初に発見されたものです。天王星が発見されたとき、その公転に影響を与えている、何らかの質量を持った存在が予測され、それを裏付けるように海王星が発見されました。それでもまだ計算が合わず、もう一つくらい星があるのではないか、と考えられ、トンボーが発見したのが冥王星だったわけです。もっとも、冥王星の重力は天王星の公転に影響を与えていなかったそうですが、でもまあ、発見されたわけです。
 惑星の外側に、性質の異なる天体が太陽の回りを公転している、その最初に発見された天体としては、冥王星はそれなりに特別な存在だと思うのです。冥王星冥王星として、矮惑星の中でも特別な存在として、新しいファミリーの中で、人々の心の中に残ってくれればいいと思うし、新しく発見された矮惑星にも名前がつけられ、冥王星の衛星と言われていたカロンとともに親しまれるようになればいいなあって思うのです。それは、彗星の中でもハレー彗星が人々の心の中に特別な地位を持っているように。

 娘は冥王星のニュースを見ていて、「セーラープルートーはどうなるの?」と言っていました。まあ、完結したマンガなので、どうもならないわけですけれどね。
 そういや、原作にはセーラーセレス、セーラージュノー、セーラーベスタ、セーラーパラスというのも出ていました。小惑星の星の戦士ということで。知っている人は知っているけれど、アマゾネスカルテットの正体がセーラー戦士だったわけです。まあ、この4つの小惑星は、たくさんある小惑星の中でも特別な位置にあるということですね。
 だから、まだセーラームーンをやっていたとしたら、セーラープルートーの双子の妹のセーラーカロンとかも出てくるのではないか、などとも思ってしまいました。

 科学が進歩することで、新たな発見や考えや定義が出てきて、教科書が書きかえられるというのは、それは当然のことではあります。例えば、単位がm、kg、秒(s)を基準に統一されたとき、cm、g、sを基準とした単位は使われなくなりました。圧力の単位でいえば、b(バール)ではなく、Pa(パスカル)になったわけです。そうなると、気圧の単位もmb(ミリバール)ではなくhPa(ヘクトパスカル)になるわけです。
 この変更があったとき、教育産業に従事していたので、教材をみんな変更したわけです。
 あるいは、ぼくたちが理科を学んだときは、カビやキノコも植物に入っていました。でも、カビやキノコを植物に入れるというのは無理があるということで、とはいえ学習指導要領で菌類を教えるようには書かれていないので、教科書では、まあ、カビやキノコのようなものもあります、なんていう中途半端な記述になったわけですが、そういうわけで、無理に植物だというようには書かなくなりました。

 まだまだこういうことはたくさんあると思います。ジャイアントパンダはアライグマではなくクマですし、鳥は恐竜の子孫です。
 鳥と恐竜について言えば、生物の分類として、綱という単位があります。恐竜は爬虫類綱、鳥は鳥類綱ということですが、こうした分類の仕方を変えようという案もあります。鳥類は魚類のなかまのなかの両生類の仲間の爬虫類の仲間の鳥類である、という、進化を重視した新たな分類法ですね。それはそれで合理的な面もあるし。

 まあそういうわけで、水金地火木土天海なわけですけれど、そのほかに小惑星もあれば、冥王星のような天体もあるし、彗星もあるわけです。太陽系というものがどのように構成されているものなのか、そういったことが、今回の定義の見なおしをきっかけに、より正しい形でとらえられればいいと思います。
 まあでも、科学的に正しいっていうことは、もっとも矛盾が少ない仮説でしかないんですけどね。

 中西正司と上野千鶴子の共著「当事者主権」(岩波新書)を読みました。
 以前、介護関係の雑誌の記事を書かせてもらったことがあって、いろいろと勉強になったし、また機会があれば記事を書きたいとも思っているわけですが、そんなこともあって、読んだわけです。
 中西は20歳のときに交通事故で四肢が不自由になったわけですが、そういった立場から、自立生活支援センターを設立したり、といった運動と事業を行ってきた人です。上野については、言うまでもないですね。
 当事者主権というのは、すごく単純なことです。自分で決定するということなのですから。ぼくは四肢が自由に動くので、自由に電車に乗れるし、行きたいときにトイレに行ける。もしこれが当然の権利だとしたら、障害者にも同様の権利があるはずです。あるいは、介護を必要とする高齢者だって同様です。そうした権利を回復するために、障害者運動は展開し、一定の成果をあげてきました。そうした運動とその結果がコンパクトにまとめられたのが、この本ということになります。
 上野によれば、女性運動と障害者運動はとてもパラレルなものだということです。介護保険制度に対して、上野が評価するのは、介護の社会化が行われたということ。女性が実の親なり義理の親なりの介護をしても、誰もそのことを経済的に評価してくれなかったけれど、同じことを他人に対して行えばお金がもらえるということ。そして、本質的には、ケアをケアされる主体が選べるということ。お金を払わない行為においては、いちいち「ありがとう」などと言わないといけないというか、負い目を感じながらサービスされることになるわけで、それはとうてい、当事者主権を満たしてはいないわけですから。
 とまあ、そういうことや、運動と事業の関係のありかたなんかもいろいろと学ぶところはありました。
 もちろん、上野も中西も介護保険制度を手放しでほめているわけではありません。

 田中哲弥の「ミッションスクール」(早川文庫)も読んでしまいました。「トーキングヘッズ」の書評で、福本直美さんが、この本を買ったことを「人生三度目の誤りだ」と書いていたので、ぼくの誤りの多い人生にさらに謝りを付け加えようと思ったわけです(当然その誤りの中には、遠い昔に買って読んだ、同じ田中の「やみなべの陰謀」もあるのですが)。
 はい、やっぱり人生を誤りました。なんか、悲しいくらいくだらない学園不条理SFというか、それでいいのかよ、っていうか。いや、期待通りだったので、これはほめているわけですけれども。
 ということで、この本は今は、近所の郵便局の貸し出しコーナーにあります。ご自由にお読み下さい、でも返してねっていう。きっと、人生を誤る人は、他にもいるんだろうな。