こちら葛飾区水元公園前通信826

tenshinokuma2014-12-17

 こんばんは、です。
 
 今日は、宣伝から。
 現在発売中の週刊エコノミストで、原発の再稼働について書かせていただきました。
 ぜひとも、本屋で立ち読みをしてやってください。
 特別、新しい情報を提供しているわけではありませんが、表にまとめただけでも、原発の手詰まり感がわかってもらえるんじゃないかって思います。
 依頼のときの文字数をたっぷりオーバーしたけれども、それなりのものだと思いますので。
 それでも書けなかったこともあります。
 再稼働にあたって、避難計画をつくるのですが、これが再稼働の要件にはなっていないこと。というのも、避難計画なんてつくれないからです。例えば、四国電力伊方発電所佐田岬半島の付け根にあるのですが、この半島に住む約5000人の人は、地震による原発事故や台風時の原発事故では、逃げる場所がないのです。
 他にもいろいろ。柏崎刈羽原発の4号機だか5号機だかは、中越沖地震のときの破損がまだ修理できていません。

 原発ついでに。先日、河合弘之監督のドキュメンタリー映画「日本と原発」を見ました。
 胸が痛むような福島県の海岸の失われた集落の光景から始まるこの映画は、原発事故を忘れかけている現在だからこそ、できるだけ多くの人に見てほしいと思いました。
 上映後、河合監督はこの映画について、武器だ、と言いました。脱原発のための武器である、と。本も書いたけど売れなかったし、再稼働にむけて少しずつ進んでいるし、と。
 この映画が、少しでも多くの人に届き、福島原発事故が思い出されるのであれば、武器になると思います。
 だから、機会があったら、ぜひ、と言っておきます。
 この先、映画館で上映される機会は少ないかもしれませんが、自主上映会などはけっこうあると思います。

 でも、同時に、脱原発の限界も感じます。
 都知事選のときに指摘しました。なぜ脱原発細川護煕候補を応援してしまったのか、と。このとき、脱原発を目指そうと考えた人たちは、別の問題に直面する人のことに思い至りませんでした。具体的に言えば、貧困です。
 暮らしや仕事、子育てや介護をめぐって困難を抱えている人にとって、脱原発は遠い話でした。
 しかも、よりによって、貧困/格差を作り出した小泉純一郎が細川を応援していたのですから。
 このとき、脱原発を考えている人は分裂しました。弁護士である河合弘之は細川を、そして今回の映画の監修などをつとめた弁護士の海渡雄一宇都宮健児を応援しました。
 昔の話をしようというのではありません。
 「日本と原発」においても、原発が存在してしまう、その背景としての広い意味での貧困には、思い至っていないのです。
 原発が立地している地点の多くは、原発がなければ何もないところでした。原発によって仕事ができました。
 今さら、原発をなくしたら、仕事がないのです。目の前の問題なんです。

 もっとも、原発の仕事がいい仕事だとは思えません。
 かつて、玄海原発を取材したときに、それによって仕事ができたとして、近所に住む女性が原発敷地内の草取りをしている姿を見たときに、それは違うんじゃないかと思いました。きちんと漁業や農業で生計が立てられない、ということなのでしょうか。
 何重もの孫請けの孫請けで、放射線管理区域で仕事をすることが、幸福なのかどうか。玄海原発川内原発の間を往復する暮らしが、仕事があって良かった、ということなのかどうか、とも思います。

 原発に依存する暮らしがどういうものなのか、そのことにも留意することが必要だと思います。それなしには、脱原発だけでは人は動かないと思います。

 それでも、エコノミストに書いたように、原発は終わっています。先が見えているというべきか。反対も推進も関係なく、将来は見えています。ただ、推進したい人はそのことが見えないふりをしているし、反対する人は推進したい人のふるまいに反応してしまうだけなのだと思います。
 まあそれに、動かない原発のための防潮堤づくりとか動かない原発の建設工事など、無駄なお金も流れているのですが。

 総選挙の結果は、まあ、直前の新聞の予測よりはましだったかな、というところです。
 これから起こることは、野党の死と再生なのだろうと、そういうことを期待しています。
 安倍晋三は手詰まり感がぬぐえません。解散総選挙も、これを払しょくするものではなかったと思います。払拭できるものでもなかったし。
 このまま、アベノミクスと称される政策を続けていても、格差が拡大し、内需は縮小、景気は悪化していくだけです。でも、安倍晋三が格差を縮小するような政策をとるとは考えにくいのです。
 安倍自民党のピークは過ぎたのだと思います。
 そして、結果が出なければ、自民党は内部分裂するのではないでしょうか。
 今回の総選挙は最低の投票率でした。これは、多くの有権者にとって、戦わずして負けたようなものかもしれません。
 選択肢がなかった、ということがよく言われます。でも、それは他ならぬ有権者の責任だと思います。
 政策を実行する集団としての政党という商品があり、これはお金ではなく投票で購入できるとしましょう。投票しなかった人は、適当な商品が配給されるとします。
 投票し、政策を受け取る有権者は消費者です。でも、消費者が、どんな商品が欲しいのか、誰にも伝えるのでなければ、欲しい商品は提供されません。
 だから、有権者の責任だと思うのです。
 次の国政選挙は、遅くとも、2016年の参議院議員選挙になります。このときまでに、どんな商品が欲しいのか、しっかり考え、伝えていかないと、事態は悪くなる一方だと思います。

 いとうせいこうの「親愛なる」(河出書房新社)を読みました。
 うっかりすると、ぼくたちは言葉を奪われてしまうかもしれません。

 辺見庸の「霧の犬」(鉄筆)も読みました。
 死刑制度が継続し、人の命を奪う仕事をする人がいるという現状、脳血管障害とがんによって思うようにならなくなった身体を抱えた著者の見る世界が、それこそバラードの言うインナースペースのように広がる、そんな本でした。

 戦争をめぐるインナースペースを体験する作品なら、クロード・シモンです。「農耕詩」(白水社)も読みました。
 シモンのぎっしりつまった言葉の迫力を、ひさしぶりに体験しました。
 半分は、静岡との往復の電車の中で読んだのですが。

 ビデオで「たまこラブストーリー」も見ました。劇場版「たまこマーケット」です。
 でも、話の焦点は、幼馴染のたまこともち蔵のラブストーリーです。
 思いっきりストレートな話でした。でも、それを微妙な演出で見せてしまいます。それは悪くないです。
 というか、ぼく自身、ストレートなラブストーリーが好きなんだな、とも思いました。
 そう思ったのは、村上春樹編「恋しくて」(講談社)を読んだからです。ひねった話は、ちょっとしんどくて、去年のノーベル賞を受賞したアリス・マンローの短編も、うまくぼくに伝わらなくて。
 といいつつ、岸本佐知子編「変愛小説集」(講談社文庫)もけっこう楽しんで読んだんですけどね。

 とまあ、今日はそんなところで。