こちら葛飾区水元公園前通信795

tenshinokuma2012-11-26

 おひさしぶりです。
 けっこう寒くなってきましたね。といっても、まだコートが必要なほどではないのですが。

 毎度のことですが、宣伝から。
 「トーキングヘッズ叢書 No.52 コドモのココロ」が出ました。今回もいろいろてんこもりです。ご購入のほど、よろしくお願いします。

 えーと、来月は総選挙と都知事選挙ですか。葛飾区の場合、都会議員補欠選挙もあります。いっぱい投票するので大変です。
 総選挙の結果は、あまり期待していません。というか、自民党の選挙公約を見ると、ほんとうに、こんな人たちに政権をとらせていいのかなあ、と思うのですが。みんな、それでいいと思っているんだろうな。
 考えると、憂鬱になるのですが。

 アメリカ大統領選挙は、オバマ再選だったのだけれども、これを見ていて思うのは、なんだかやっぱり、日本人のがだまされやすいのだろうなあっていうことです。
 オバマ政権の4年間っていうのを考えると、実は政権公約のほとんどは実現されていないっていうことがわかります。グリーンニューディールといいつつ、シェールガスでかすんでしまうし、雇用はそれほど増えていないし。温暖化問題も移民の問題もなかなか。国民皆保険制度こそ、ようやく成立したものの、けっこう骨抜きにされているところもあります。
 原因は、議会のねじれにあります。最初の2年間は、上院も下院も民主党過半数だったけれども、法案を成立させるためには、上院で6割の議席が必要でした。しかも、民主党だからといって、党議拘束があるわけではなく、説得もしなきゃいけない。途中、ケネディ上院議員の死去で補欠選挙があったのですが、そこで民主党は負けてしまい、安定多数を失います。中間選挙では議席を減らし、いっそう政権運営がむずかしくなっている。
 オバマ大統領に対する幻想は、どんどん消えて行ったわけです。
 では、共和党の方がいいのか。そうではないのです。それでもなお、民主党の政策の方が支持された、ということだと思うのです。
 大統領選挙というと、低レベルな誹謗中傷合戦もあります。ですが、政策論争もきちんとされています。

 今度の総選挙で、人々は政策で投票先を選ぶのでしょうか? 「何かやってくれそうだから」くらいで、選ばれるような雰囲気です。そうした雰囲気をマスメディアも盛り上げます。
 そもそも、民主党マニフェストがすべて簡単に実現できるものではなかったし、実現するにあたって、行政をコントロールする能力も経験も不足していたと思います。
 でも、そんなことはわかっていたことです。それを受け入れながら、鳩山由紀夫を周囲が(民主党議員も、一般国民も)支援していれば良かったと思うのです。すべてを鳩山に抱え込んでもらう必要はなかったと思うのです。沖縄の問題がぐずぐずしても、宇宙人らしく、鳩山は居座るべきだったと思っています。
 でも、マスメディアも人々も、リーダーシップしか求めていなかったと思うのです。それがどんなものであれ、思考停止した人々を引っ張って行ってくれるのであれば、地獄へでも行く、そういう人たちが圧倒的多数だったのではないか。そんなふうに思っています。
 何だか、雰囲気にみんながのみこまれ、おたおたしてしまったのが、民主党の3年半だったのではないでしょうか。
 気が付くと、残ったのは、民主党ではなく、自民党野田派でした。そして、かつての自民党はかつての自民党青嵐会みたいなものになってしまいました。もう、何が何だか。
 さらに、似たような人たちが第三極って言われていて。保守とか右翼とかいいますが、自民党アメリカ依存の右翼であり、維新の会は国粋主義系右翼といった違いなのかもしれません。

 それでも、同じことは7年前にもありました。郵政選挙では、自民党は圧勝したわけです。それで、たくさんでたらめなことがあったことも事実です。だから、次の総選挙では自民党は惨敗したはずです。
 来年の政権はまた、でたらめなことをするものになるのかもしれません。それでも、きちんと揺り戻しがある、そう期待したいと思うのです。
 小泉のあとを受けた安倍が失敗したのは、当時の日本が直面する課題をさておいて、教育基本法の改正とか、そんな関係ないことばかりやっていたからだったと思います。同じことが、繰り返されるのでしょうか。

 まあ、そんなこんなですが、人間ネオテニー説っていうのがあって、それはアリかな、とも思っています。ネオテニーというのは、幼形成熟、つまり子供の姿のまま、成熟するっていうもので、有名なのはウーパールーパー。足がはえないまま、成熟します。でも、甲状腺ホルモンを注射すると、足がはえてくるそうです。
 人間の毛が少ないのも、ネオテニーなんじゃないか、ということです。
 それはアリかなっていうのは、結局のところ、人間はみんな子どもなわけで、子どもだからこそ可塑性があり、適応力が高いのかな、と。そうであれば、人間はもっと成長してもいいんじゃないか、とも思います。
 そういうことを、信じたいなあ、といったところです。

 辺見庸の「明日なき今日」(毎日新聞社)を読むと、やっぱり暗い気持ちになりますが、まあ。

 清水玲子の「秘密」が完結しました。ラスト近くまでは面白かったんです。でも、どうしてラストがBLになっているのか。って、そこでどうしてって思ったら、この作品はわからないのでしょうか。
 脳から記憶を見るというのは、無理かもしれないけれども、人が一生の間に見たものを記録することは、たぶん、可能です。監視カメラといわず、目と連動したカメラが埋め込まれて、映像が全部クラウドで管理される、っていうことはあるかもしれません。遠い将来ですけど。そうしたら、「秘密」のような世界になるんだろうなって、思います。

 えーと、「サイボーグ009 2012009」(角川文庫)を読みました。全三巻。いろいろと考えてしまいました。
 もちろん、遠い昔、「天使編」を読んで、続きが気になっていました。「神々との戦い編」はその再挑戦でしたが、これは立ち読みで。というのも、最初に出たのが、高い箱入りだったから、だったと思います。で、これも未完。
 石森章太郎は死を前にして、小説の形で完結させようとしましたが、かなわずに亡くなりました。それを、息子が小説として完成させたというものです。これをもとに、マンガ版が、現在進行形で描かれています。まあ、マンガで読みたかったな、とは思うのですが。

 「サイボーグ009」の「天使編」が完成されなかったのは、そもそも、光線銃で平和になる世界ではなかったという現実があったからだと思うのです。
 ブラックゴーストという悪の組織は、人の心に悪がある限り、なくなることはない、というものでした。そうだとしたら、そもそも、最大の悪の組織というのは、人間社会ということになります。それを排除するのか、それでも人間を信じるのか。別に、石森章太郎に限らず、このテーマは、いろいろな作品で繰り返されていると思います。
 「天使編」が完成されなかったのは、人の心に悪はなくならないし、それをかばい続けるということは、永遠の作業になるから、なのだと思っています。そして、それを乗り越えようとすれば、スケールというだけではなく、人の存在そのものが問われてしまうのでしょう。
 神々、あるいは天使といった、超越的存在との戦いということの困難さに加えて、人の内面との戦いが重なることで、単純なドラマが成り立たなくなってしまいます。

 「天使編」が中止されたときに、石森は、最後の戦いは、これまでのすべての戦い以上に長いものに、作品としての長さも、これまで書かれたものの合計を上回るようなものになるのではないか、としています。
 ですが、「天使編」はコミックスの第10巻でした。当時のコミックスの厚さは、現在のものより1.5倍くらいはあったとしても、15巻ということになります。これは、コミックスとしては、決して長くありません。石森自身、「HOLEL」の巻数はこれを上回っているはずです。
 もっとも、長く続くコミックスが、単純にスケールが大きな話かというと、そういうことでもないでしょう。永井豪の「デビルマン」は単行本でわずか5巻しかありません。

 「サイボーグ009」のとりわけ後期、少年サンデーに連載されていた時期のものは、戦いよりも、彼等の内面に焦点があてられていました。
 人間としての内面を残しつつ、人間としての身体を人間によって奪われたというのが、サイボーグ戦士です。パーツを変えれば、長生きできるけれども、人間としてのさまざまなものが欠落してもいます。
 それを、人間と神々の間に置き、「受難」の物語にしていく。そういうことだったのでしょうか。
 という構造にしたとき、サイボーグ戦士は人々のために犠牲になり、すべての罪を背負った、というふうになるのかもしれません。
 でも、それは光線銃で解決するような話ではなくなってしまいます。

 「サイボーグ009 2012009」は、メタフィクションとしてはじまります。プロローグは、病床の石森のところに、未来からギルモア博士が訪れる場面です。未来の001、イワン・ウイスキーが過去の石森にテレパシーを送り、「サイボーグ009」を書かせていたというのです。
 そうした、これまでの作品を別の解釈の中に取り込んでしまう構造は、どうかと思う人もいるかもしれません。
 全3巻のうち、最初の2巻約700ページは、個々のサイボーグ戦士の物語であり、全体の序章をなすものです。そして、本格的な戦いというと、第3巻約300ページです。十分にバランスを欠いた構成です。
 そこで語られることは、この物語の不可能性なのではないか、そうとしか思えないのです。
 現実の世界では、光線銃では平和はこない。人々の心の中のブラックゴーストは肥大化する一方。そんなところで、サイボーグ戦士にとって、戦うということは不可能だということです。そのことを示すのに、たくさんのページは不要だったのでしょう。

 「サイボーグ009」の「神々との戦い」が未完でも、それはそれでいいとは思っていました。マンガという枠の中で、不可能な部分が少なくないと思ったからです。あるいは、サイボーグ戦士による戦いというコンテクストで語られることが可能なのかどうか。ですが、その一方で、石森がどんなことを書きたかったのか、ということも興味はありました。
 完結編の小説は、息子の小野寺丈がかなりの部分を執筆し、とりわけ最後の戦いは、石森が残したメモをもとに小野寺が書いたということです。そのメモも完全なものではなかったとも。
 それでも、「サイボーグ009」という作品は、何はともあれ、完結したし、それで良かったとも思います。

 今月は、久々に息子と釣りに行きました。いつもの場所。カワハギを釣りたかったのです。でも、カワハギは2匹だけ。あとは、キュウセンやササノハベラなどがたくさん。
 今回は、カワハギは刺身や味噌汁にして、残りは3枚におろした後、唐揚げにして、おいしくいただきました。フライドポテトもつくったので、フィッシュ&チップスみたいですね。
 最近、魚を3枚におろすのが、だいぶ上手になってきました。

 あと、楽しみはといえば、「花のズボラ飯」「中二病でも恋がしたい」を見ることかな。
 「花のズボラ飯」は、娘に言わせると、倉科カナがきれいすぎて、花ちゃんじゃないので、イライラする、らしいのですが、ぼくとしては、見ていて幸せになるようなドラマなので、とても気に入っています。娘とかみさんは、倉科カナじゃなくって、アジアンの馬場園でちょうどいいんじゃないか、という意見なんですけどね。