ミツバチの羽音と地球の回転

tenshinokuma2011-08-18

 ということで、昨日、ようやく「ミツバチの羽音と地球の回転」を見てきた。いまさら、と言われそうですね。
 正直に言えば、すっきりしないものを感じていました。
 映画をみながら、ずっと思い出していたのは、女川原発玄海原発のこと。女川では民宿にとまったのだけれど、海のものがおいしかったです。ホヤとかホタテガイとかウミタナゴとか。とりわけ養殖が盛ん。牡鹿半島原発がなければ、道路ができず、陸の孤島だったし、そういう中で人は暮らしていた。反対運動のかんばんも残っていたけれど、本当に残っていただけ。でも、現在は、そこにあったリスクが顕在化してしまっている。帰り際に、民宿のおばさんが、今度は夏に来てくださいって言っていたのを覚えている。いつか、夏に行こう、と思った。でも、思っただけでいまだに実行していない。玄海では、タクシーの運転手が「原発がなかったら、唐津はどうなっていたことか」と言っていた。でも、それで玄海町は豊かになったのかどうか。仕事はできたかもしれない。でも、農業や漁業のかわりに、原子力発電所の緑地の手入れをする仕事が、それをしている女性たちにとって幸福だったのかどうか、すごく疑問です。夜、飲み屋に行くと、さつま五代のボトルが並んでいました。旧鹿児島県川内市のいも焼酎です。
 上関原子力は建設すべきではないと思っていますし、それは暴力によって強行されてきたという事実、そしてそれを報道しない暴力というものは、批判されるべきだと思います。ほんとうにここは民主国家なのか、と。でも、他の地域でも、反対運動があり、しばしば受け入れざるを得ないことになってしまう。人は弱い存在だと思うのです。それは、弱いところに陥れられているのかもしれません。
 たぶん、原発を建設するたびに、海が死ぬ以上に、ぼくたちの中で何かが死んできたのではないかと思うのです。
 けれども、映画は、そうしたものを見せることなく、先に進みます。それは、監督が意図していなかったことだからだと思います。そこが、すっきりしなかったところなのかもしれません。
 スタッフ、出演者すべてをリスペクトし、すぐれたドキュメンタリー映画だと認めたうえで、ぼくの感じたところです。
 写真は、ミツバチではなくナナフシです。うまく撮影できなかったけど。