こちら葛飾区水元公園前通信773

tenshinokuma2011-02-02

 2月になってしまいました。まだ、年賀状を出していません。すいませんです。でも、これから新年会ということもあるので、許してください。

 そういえば、今年の七福神めぐりのことを話していなかったですね。今年も、かみさんと息子、友人Aとともに行きました。娘はお笑いの方に行ったので不参加。
 で、今年、選んだのは、松戸七福神松戸市内にあるお寺をまわるわけですが、結論を言うと、一日でまわれませんでした。
 スタートは金町駅。ここから橋を渡って、すぐに最初のお寺があります。次のお寺も松戸駅の近くなので、たいしたことはなかったのですが、そこからが大変でした。
 土手にそった道を流山の方まで歩き、途中で息子のリクエストで山田うどんに入り、そんなこんなで歩くこと2時間。さらに流山駅を通りすぎて、北小金まで行き、2つのお寺をまわったところで、時間切れ。小金城趾駅から、流山鉄道に乗って帰ったのです。
 まあ、前々から流山鉄道には乗ってみたかったし、なんともさびれた雰囲気が良かったんですけどね。
 翌日は、息子と二人で、八柱にある残り2つのお寺をまわったわけですが、最後のお寺がなかなか見つからず、苦労しました。地図がよくわからないし、というか、八柱駅から近いにもかかわらず、八柱駅につながる道がないという。広大な21世紀水と森の公園を通り抜けて帰ったくらいですから。
 松戸七福神は、1日で歩いてまわるのは、ほとんど不可能なレベルだったわけですが、これには理由があります。真言宗豊山派の寺院だけで構成されており、同じ宗派の市内のお寺ということになるからです。
 まあでも、今年も七福神めぐりをしたので、いいことあるでしょう。
 帰りは息子と二人で、矢切にあるスーパー銭湯、笑がおの湯に立ち寄りました。

 最近、読んだ本ですか。
 森奈津子の「スーパー乙女大戦」(徳間書店)は、まあ、触手プレイが日本オリジナルだというのが、新たな発見でした。あんなことやこんなことはいつも通りなのですけど。プレイにからまない人物の登場というのは、かえって新鮮だったりもしました、が。出てくる怪獣やそれを退治する過程っていうのは、「クレヨンしんちゃん、3分ポッキリ」まんかなんじゃないか、などとも思ったりして。
 津田大介牧村憲一の「未来型サバイバル音楽論」(中公新書ラクレ)は、もうすぐに読み終わるのですが、音楽ビジネスの簡単な歴史がわかって、とてもいいです。レーベルのいこととか、どれだけアーティストに著作権料が入っていなかったかとか。でも、それはそれとして、というかそのことは読み終わったらあらためて、ということにして。ふと、思ったのは、iPadがそうであるように、本っていうのもデバイスだったんだっていうこと。ROMなんだっていう。前々から、本であることが目的化してしまって、中味のコストのことが考えられていないということは思っていた。同じ小説なのに、ハードカバーという入れ物と文庫という入れ物では極端に値段が違うというのもおかしいと思っていたし。まあ、印税が10%というときは、ぼく自身、本の定価が高い方がいいよな、とは思うし、だから自分の本の定価が〔第2版〕になって100円上がったことで、1冊あたり10円ほど収入が多くなったりもしていることは、認めてしまうわけだけども。でもね、というのがある。
 自分の本が文庫になったら(なるわけないんだけどさ)、印税は20%にしてほしいとか、思う。そういや、アマゾンで自分の本がusedで売られていたとして、それが売れれば順位は上がったりしてうれしいけど、実は印税は入らない。ちょっと複雑。と思いつつ、自分はけっこうusedのCDを買ったりしているので、文句を言える筋合いではないこともわかっているわけだが。
 そうだった、本はデバイスだった。そう思うと、電子出版って、あたりまえのことだよな、となおさら思うのであった。
 それで、どうするんだって言われたら、まあ、どうもしないんだけど。そうでもないな。「クマによるとこの世界は・・・」は電子出版するかもしれない。あと、「分散型エネルギー新聞」のコンテンツのいくつかも。

 深夜、「フラクタル」と「放浪息子」が続けて放映されるのって、どういうことだろう、とも思う。
 「フラクタル」の原案は東浩紀。ぼくは東の「クォンタム・ファミリーズ」には多少批判的なんだけど、それの裏返しが「フラクタル」なのかな、とも思う。キーワードの一つが家族。個人がフラクタルというシステムによって病気などなしに生きることができる社会。食べ物は味気ないものだけど、まあそれはいい。個人が自立して生きる形になるので、家族はばらばらに暮らしている。自分が好きな生き方を子供に干渉されずに生きる。だから、子供のそばにいる両親は実体のないドッペル。個人が個人であることを推し進めたところでぎりぎりの形を保つ家族。そうなのかもしれない、と思う。そして、でもそれを管理するのは、フラクタルというシステムだという。
 わからないでもない。でも、「クォンタム・ファミリー」がそうであるように、家族についての思想っていうのは、はるか先を行っているし、だから「フラクタル」が提供しているものが、どうしても古く見えてしまう。
 それでも、ジブリみたいなきれいな絵だからいいか、というものかもしれないのだけど。

 「放浪息子」は、必見です。主人公は中学1年生。女の子になりたい男の子と男の子になりたい女の子の話、ということで進んでいます。自分がなりたいもの、自分がありたい形に対して、素直に向き合える主人公というのは、なんかすごいなあって思う。こういうのって、「少女革命ウテナ」以来じゃないかとも思います。ぜんぜん、違う話だけど。それで、今のところそれ以上の言葉が見つからないんだけどね。

 小谷真理の「リス子のSF,ときどき介護日記」(以文社)を読んだから、なんとなくその勢いで言ってしまうと、フェミ的には、「フラクタル」ではなく、「放浪息子」です。

 久住昌之原作、水沢悦子絵の「花のずぼら飯」(秋田書店)を読んで、こういう展開もあるのか、などとしみじみ思ったりもするきょうこのごろです。

 2か月、釣りに行っていないので、今月は行きたいって思っています。まずはメバルカサゴです。