こちら葛飾区水元公園前通信758

tenshinokuma2009-12-29

 今年最後のこち水に多分なると思います。
 今年もお世話になりました。

 今年最後にどうしても書いておきたい本のことです。中沢新一の「純粋な自然の贈与」(講談社学術文庫)とクリス・アンダーソンの「フリー」(NHK出版)の2冊を続けて読みました。
 「フリー」はけっこう売れているので、読んだ人も多いでしょう。無料でサービスや商品を提供しても成り立つ経済やビジネスモデルの話です。これは、古くて新しいものです。
 無料の新しい話としては、TwitterやMixiなどのサービス、あるいは検索エンジンなど、ネット関連のものがあります。でも、モデルとしては昔からあるものでもあります。
 アンダーソンが本書で指摘しているのは、無料にはいくつかのモデルがあり、例えば一部の有料サービスを受ける顧客が費用をまかなっていたり、オプションが有料だったり、広告でまかなったり、というものです。本当に、ボランタリーに無料なものもあります。
 広告でまかなうモデルというのは、テレビがそうですね。あと、無料で髭剃りを配布し、替え刃を有料にしたというビジネスもあったそうです。携帯電話と同じですね。オンラインのRPGなんかは、アイテムを買うこともできて、それでお金のある人はさくさく進むとか。本書にはないけれども、書店というのは、無料で立ち読みができるかわりに、気に入ったら買って家に持って帰るというものなのだと思います。というか、このことはけっこう重要なんですけどね。
 けれども、デジタル化によって、大量に提供するということのコストが劇的に下がりました。データの記憶のコストが限りなく下がったし。そうしたことで、無料のフィールドが大きく広がったというのが、現在なのだと思います。そして、ぼくの解釈では、コンテンツビジネスは大きく変化せざるを得ないということが、けっこう大きなポイントだと思うのです。
 実際に、CDの売上げは落ちていて、有料ダウンロードが一部でとってかわっているけれど、無料でダウンロードできるものもある。CDをそのまま雑誌や新聞の付録にしてしまうこともある。もはや、CDで儲けることは考えず、コンサートに足を運んでもらうことを考えるアーティストも出てきている。マドンナやプリンスがそう。
 本のある部分は、デジタルコンテンツにとってかわられている。百科事典が成立しなくなっているというのは、よく知られた話です。
 無料のソフトもたくさんあります。リナックスのようにボランタリーなものもあれば、アクロバットリーダーのように読み込むソフトが無料というものもあります。グーグルのスイーツは広告で費用を回収しているし。
 対照的なのは、フリーペーパーの苦戦かもしれませんね。これも本書には書かれていないけれど、「R25」がいつのまにか隔週になり、「L25」は月刊に。ぼく自身、フリーペーパーにもかかわっているので、ひとごとではないのですが、紙の媒体はお金がかかるというのはその通りなのかもしれません。リクルートでは、むしろ「HOT PEPPER」の方が利益を上げているそうですが、ちょっと考えてしまいます。
 でも、じゃあ、アンダーソンが言うように、無料のビジネスモデルを考えて見ましょう、ということだけなのかな、と思うのです。無料の経済っていうのは、けっこう重要なことなんじゃないかっていうことです。
 無料というのは、ビジネス、少なくとも金儲けというところからはみだしていく部分があるし、そこのところをもう一度、捉え直すべきだと思うのです。
 これは、以前、書いたことですが、マイクロソフトのウインドウズXPの頃に独占禁止で訴訟になったのは、OSが公共財だったからなのではないかと考えています。だから、それに対抗する形でリナックスの登場は必然だったと思うのです。
 あるいは、ウィキペディアもまた、公共財となっていると思います。だからこそ、寄付で成り立っている(ぼくも、ほんのわずかですが、寄付をしました)のではないでしょうか。
 というところで、「純粋な自然の贈与」の話になります。この本では最初に、新大陸にやってきたアングロサクソンが、ネイティブの贈与の文化に対応していなかったという話から始まります。贈与されたらお返しをするもの、それがきちんとまわっていく。
 というような文化は、ぼくたちはデジタルな時代、アンダーソンに言わせれば、20世紀のアトム(物質)の時代から、21世紀のビット(情報)の時代に移り変わることで、贈与の文化をようやく手に入れる、あるいは取り戻すのではないかと思うのです。そういう文化があってはじめて、リナックスが成立したし、ウィキペディアが充実したものになっている。
 けれども、こうした贈与というのは、やはりビットだけじゃなくていいとも思うのです。贈与というものが、アトムの世界にも広がっていくということです。
 これから、お金だけではまかなえないものが増えてくるのではないか、と思うからです。
 例えば、高齢化が進んでしまうと、福祉の分野では地域のボランタリーな力がないと成り立たなくなるかもしれません。
 あるいは、新しい薬の開発はコストがかかる一方で、対応する症例が少なくなる、という傾向にありますから、ビジネスとして難しいものになりつつあります。けれども、そうしてできた高価な薬なしには生き延びることができない人がたくさん存在する、ということにもなるでしょうし、すでにそういった薬が存在します。ここでは、お金と命が天秤にかけられているのですが、この不合理には、対処が必要だと思うのです。
 そもそも、ほとんどのアートは生活できるだけのお金を稼いでいません。一部の小説家のような例外を除けば、演劇とかクラシック音楽とか、ほとんどがそうなのだと思います。デジタルコンテンツになることで、本やCDという「物質」を通じて収入を得ていたものが難しくなるけれども、そこでようやく、そのことはある部分で無料の経済に組み込まなきゃいけない、ということになるのかもしれません。
 そう考えていったときに、公的な贈与の仕組みである「ベーシック・インカム」がもっと注目されるのだとも思います。
 アンダーソンが書くように、無料はビジネスだけのもの、だとは思わないのです。それは、アンダーソンが考える以上に、私たちの経済にとって、根本的な思考の転換をもたらすものです。そうしたことを、中沢の本と並べることで、感じていたということです。

 先月、今月と他にもいろいろな本を読んだのですが、それは別の機会に、あるいは別のところで。

 最後に、今年最後の釣りは、先月でした。横須賀の大津港で、友人Aの運転で、息子とかみさんも一緒に。友人Aはハオコゼばかり釣っていたし、でもまあウミタナゴとかメバルとかトラギスとかも釣れたので、まあいいかな、といったところです。
 次回は、再び葉山に行こうと思っていますが、年明けになりますね。
 そのうち、堤防五目釣り闇鍋でもしましょう。釣った魚はみんな鍋。カサゴメバルだけじゃなく、ゴンズイもベラも。フグ以外は全部。いかがでしょうか?

 なお、写真は息子が撮影した、大和湯の近くにいたネコです。