こちら葛飾区水元公園前通信745

 2月25日、ひさびさにワインの試飲会に出かけた。そんなヒマがよくあるなあって思わないでほしい。だって、そのあとも仕事をしていたんだから。お題は甘口のドイツワインなのだけれど、実は甘口のワインはすくなかったりする。白のリースリングや赤のピノ・ノワールを楽しませてもらった。
 そんなわけで、ひさびさに感動するワインを飲んだ。実はドイツではなく、オーストリアのワインなのだけれども。それも、有料試飲させてもらったもの。
 一通り試飲したあと、有料試飲のところで、お勧めということでお願いしたのだけれど、当然だけれども、どれもおすすめという。そこで、2種類の赤を飲ませてもらった。そこで飲んだのが、アルテレーベン ネッケンマルクトというワイン。飲んだ感じはというと、原始のオーストリアの森に連れて行かれたようなイメージなのだ。ワイルドなベリーの力強い香りと味わい。それは、現代の栽培されたベリーとは全く異なるものだ。だからこそ、3000年前、まだ文明化されていない石器自体のクロマニヨン人が住んでいるオーストリアの森、なのである。
 説明資料によると、ブドウの種類はレンベルガーという地元の品種だという。樹齢38〜80年の古木、ですか。でも本当に、オーストリアの、ひょっとしたら失われてしまったかもしれない原生林がイメージとして広がる、そんな経験をさせてくれるワインでした。

 高いから、そう思った、ということは、ないです。というのも、同じ値段で飲んだもう一つのワイン、ボンバッハー ゾンマーハルデ レゼルヴェというものは、本当によく熟成されたピノ・ノワールでした。それはとても価値があるものだと思いました。けれども、これなら上質のフランスワインでいいと思ったのです。

 こういうことです。ぼくにとって、いいお酒というのは、お酒そのものが何かを語っているというものです。ワインでも日本酒でも同じです。「神の雫」ではないけれども、飲んだときに景色が目に浮かぶというのは、本当のことです。
 こんな体験を、ワインに限って言えば、1年半前に飲んだバローロ以来です。そのときも、本当にすごいワインを飲んだということを感じました。

 このときに飲んだ他のワインについては、別途、ブログに書いておくつもりです。

 今、岡真理の「アラブ、祈りとしての文学」(みすず書房)を読んでいる。岡はぼくにとって、80年代の上野千鶴子に相当する位置を、2000年代のぼくの中に占めている。
 偶然ではないと思う。ぼくは、地下鉄サリン事件のときに、東銀座駅を通り過ぎ、911のときは、ほんとうにいつもは見ることのないニュースステーションを見た。そのことの意味を、いつも考えてしまう。
 死刑に反対する理由の一つは、それは第三者のエゴと言われるかもしれないけれども、死刑囚の記憶を一方的に葬ってはいけない、ということにある。そう、記憶ということが、とても重要なことなのだ。
 パレスチナの記憶、死刑囚の記憶、それは同列に論じるべきではないのかもしれないけれども、勝手に葬ってはいけないという点では同じだと思う。
 実は直前には「パプアニューギニア小説集」(三重大学出版会)というものも読んだ。そのことも、いずれ書く。

 ということで、以下、実は昨年末に書いた文章。配信する前に、年が明けてしまった。

 赤坂真理の「太陽の涙」(岩波書店)を読み、あるいは辺見庸の「愛と痛み」(毎日新聞社)を読む。そして、宮内勝典の「麦わら帽子とノート・パソコン」(講談社)を読む。
 今日はそのことについて。

 「太陽の涙」を読み始めて、まっさきに思ったのは、インドネシアの作家、マングンウィジャヤの「香料諸島綺譚」(めこん)のことだった。そして、その作家の本を読む背景には、鶴見良行の存在がある。
 舞台は南の島々。他の人々がその島を支配し、別の誰かがその支配者を支配する。それは、インドネシアの島々が互いに支配し、それをヨーロッパがやってきてさらに支配していた歴史とつながっている。その島の少年の話、なのだけれども。
 けれども、赤坂は現代の日本に生きる作家である。話はインドネシアで終わることはない。主人公の島は生き残るために、核融合炉の建設を受け入れる。それが太陽を小さくしたものなのだけれども。そして、失う。
 話は何も変わってはいない。そうでなくては生き残れないというところに、誰もが追い詰められている、そういうことなのではないか、と思う。絵本という形になって、どきどきするような痛みとともに、この本は送り届けられている。
 赤坂というと、女性の痛みを書く作家、というイメージがあったと思う。「モテたい理由」は、何かたどたどしい本だし、うまく書けているとは思わないけれど、そうしたものを、小説ではない言葉にしようというところがあったと、今にしてみれば思う。
 そして、今回は核融合である。

 鶴見の本から、ぼくはかなり影響を受けている。「バナナと日本人」や「ナマコの眼」などなど。ぼくたちは、バナナを食べるけれども、でもその作り手のことは見えていない。見るべきだ、想いを寄せるべきだ、その上で、食べるべきだ、というのが、鶴見の主張だったと思う。
 それは食べ物だけの話ではなく、エネルギーの話でも同じことだ。見えない向こう側に、痛みがある。そのことへの想像力というものは、作家もまた、使うべきものだろう。

 ぼくが死刑制度を反対だと思っていることは、何度も書いてきた。そして死刑制度が存続している理由は、支持者の想像力の欠如だということも書いてきた。
 辺見もまた、死刑をテーマにした講演で同じことを語り、それが「愛と痛み」という本にまとめられている。ここでは、そうした死刑の痛みを語っている。どのように殺されるのか、ということもふくめて。
 そして、話は、戦争に及ぶ。戦争と死刑は、ともに国家による殺人である。憲法第9条を守るためには、死刑もまた廃止されるべきだということだ。
 ぼくから見ると、むしろ第25条があって、第9条があると思うのだけれども。それでも、戦争に賛成してしまう、というか派兵を認めてしまう心理というのは、やはりそこで殺されるアフガニスタンイラクの人々への想像力が欠如している、ということなのだろう、と思っている。
 そうした話を、この本では、じっくりと語っている。たぶん、想像力に訴えるという意味で、突出した、死刑廃止の本なのだと思う。

 では、宮内についてはどうなのか。それはまた別の機会に。