こちら葛飾区水元公園前通信734

 ヤクルトは開幕で巨人を3タテにしたのだけれど、その後は実力を発揮し、どんどん沈んでいます。まあ、そんなもんですか。でも、盗塁とかそんな機動性はがんばっているので、それなりに面白い野球をやって、どうにか3位になってくれればいいや、というところです。

 世の中、いろいろと動いています。
 ガソリン税一般財源化は、あたりまえだよな、というのはあるのです。ほんとうは、そうではなく、暫定税率なのだから下げるべきだというのが筋だとは思います。けれども、長い間に暫定の意味合いが変質してしまいました。そのことが計画として織り込まれてしまったということ、暫定を含めた税率が決して高くないこと、そして高い税率による消費抑制ということです。さらに、道路ばかりつくるということに、批判の目が向けられた。そうしたとき、新しい目的にそっていくのであれば、一般財源化というのが正しい選択ということになってしまいます。
 ただし、そこには議論はいっさいありませんでした。現実が制度を超えてしまっていた、ということです。そこに追いつくように、与党が判断した。それが野党によって引き出された。

*

 と書いたところで、数日がたってしまいました。この間に、9年前に買ったパソコンはとうとう、画面が出なくなり(といっても、たまに復旧し、この文章はそのパソコンで書いているのだけれども)、したがって、HPの更新なんかもできなくなっていました。
 そんなわけで、ホームページビルダーを新しく買って新しい方のパソコンに入れたりとか、そんなことをしていたわけですが、問題はという、どうやってデータを移そうかなあっていうことだったりします。どういう方法が一番いいのかな。
 今は緊急非難的に、フロッピーディスクを使って、必要なドキュメントを取り出してますけれども。

 夕べは、子ども会の親睦ということで、近所で飲んでいました。なんか、地元の人のパワーに圧倒されたっていうか、まあ、その。子ども会OBというか、まあ、面通しということなんですけど。
 こうしてぼくも地元にはまっていくんでしょうね。
 自家製のどぶろくまであったりして、さすがに葛飾区北部ではないか、などと思ったりもします。
 子ども会には野球部があって、メンバーが少ないのでうちの子どももって誘われているのですけれど、うちの子どもたちは野球に興味がありません。
 「アストロ球団」のビデオなんかを一緒に見たせいか、野球というのはああいうスポーツだと思っているようなところがあるのでしょうか。ぼくが東京ヤクルトの試合をテレビで見ようとすると、もうヤダってな感じだし。
 娘はテニスをやりたいって言うのですが、野球ならタダでできるよって言っても、ダメですねえ。
 テニススクールは近所にあって、経営者は町内会長だったりします。

 新年度になって、息子は元気に小学校に通っています。毎日、先生に怒られているみたいだし、先日は他の子どもをなぐって鼻血を出させたとか、そんなことで迷惑かけまくりではありますが。それでもおとといあたりは、「今日は先生に怒られなかった」と言っているので、毎日進歩があるのでしょう。

 いろいろと読んだ本のことなんかも書いていないのですが。
 最近のおすすめは、ビジネス書では、佐藤尚之の「明日の広告」(アスキー新書)かな。
 広告がテレビや新聞といったメディアだけではなく、インターネットのことも考えなきゃいけなくなってきた。そうしたとき、広告の意味が変わってきた。つまり、商品を売るということではなく、商品・広告を通じて消費者とのコミュニケーションをはかる、ということです。ここでとりあげられるのが、スラムダンク1億部ありがとう、の新聞広告です。この広告って、実は何も売っていない。どころかもう買っているわけだから、著者の気持ちをいかに読者に伝え、共有していくかということになります。それは結果として優れた広告になりましたし、イベントも成功しました。
 けれども、そもそも広告って商品を宣伝するためのものだったはずです。佐藤のこの広告って、そこからはずれています。いいのでしょうか?
 ぼくが思うに、次に変わるべきは商品なのではないか、と思うのです。
 よく、事業の再定義が必要だって、ブログなんかにも書いたりしているのですが、そもそも商品を売るということは、事業者側から見たことであって、消費者から見るとそうではありません。では、消費者は何を買うのか? 機能だったり、体験だったり、ブランドだったり、そんなものかもしれません。
 けれども、共通することというのは、事業者の想いが商品になり、広告を通じて消費者に伝わるということなのかもしれません。その広告というのは、テレビもラジオも新聞もポスターもあるし、ネットも店頭ポップもある、そういうものです。そのコミュニケーションそのものが主役であるとしたらどうでしょうか。商品は主役ではなく、コミュニケーションの一部である、と。
 それは悪いことではなく、商品そのものの質を高めること、高い付加価値をもたらすこと、あるいはコンプライアンス、そうしたことにつながると想うのです。
 ぼくは佐藤の本を、そうした商品・広告のあり方の一断面だと見ています。

 そんな本を読む一方で、斎藤美奈子の「文学的商品学」(文春文庫)なんかも読んだりして。いろいろな小説の中で、ファッションとかグルメとかがどんなふうに扱われているのか、ということを通じて、小説を商品として見ていくということです。
 村上龍の「料理小説集」と辺見庸の「ゆで卵」を並べて、どっちもどっちと言われると、辺見ファンとしてはどうよ、というのはあるのでしょうけれども、でも冷静に考えれば、その通りだな、と思ったりして。食事をセックスに結びつけるのって、芸がないといえばその通りですから。車は女性という比喩になるけれど、オートバイはそうじゃないっていうのも、おもしろいし。
 元々、斎藤のパワフルな仕事はすごいなあって思うし、「文章読本さん江」(ちくま文庫)を読んでいて、プロのライターのプロって、プロレタリアートのプロだっていうのは、とても実感がともなっていて、よくわかったりもします。
 まあ、斎藤の本は、出版業界の人は必読です、と勝手に言っていますが、ではぼくはどこまで出版業界に足をつっこむのでしょうか? 最近やっている、「分散型発電新聞」の政治家インタビューシリーズがけっこう楽しいので、そっちの展開をもっとしたいなあって思ったりもします。

 小説は、というと、今月はジョナサン・キャロルの新刊が出るので、それがとても楽しみなんです。あと、クリストファー・プリーストマイケル・ムアコックですか。
 そうは思いつつ、先月と今月で読んだのは、リービ英雄をたくさん、それにジョン・スラディックの「蒸気駆動の少年」(河出書房新社)、加門七海の「美しい家」(光文社文庫)くらいですか。書評用の本とか仕事の本ばかりではダメだよなあって思うんですよねえ。

 変なところでは、図書館のリサイクルコーナーで拾ってきた、テッド・ホンデリックの「あなたは自由ですか?」(法政大学出版会)だけど、難しくってよくわかんなかったです。人は自由なようでいて、外部の影響下にあるのでそこに拘束されている、という問いについて考えていくわけですけれども。

 哲学系では、中沢新一・波多野一郎の「イカの哲学」(集英社新書)というのも読みました。イカは漁船で大量に捕獲されるとき、それって大量虐殺だよね、というところからスタートし、けれどもそkに何かしら生きる意味があるのであれば、それって大事だよね、という実存からスタートし、近代戦争批判に向かっていく、というのが、波多野の「イカの哲学」という本。波多野は特攻から生き残り、シベリア拘留を経てアメリカに留学、帰国後、若くして亡くなるのですが、その中でこの小さな本を書き上げました。そして、その思想から、中沢は現在の戦争への批判、生死の淵から語る憲法九条擁護を語るというわけです。
 けれど、どうしてもグレッグ・イーガンの短編「シーナE」を思い浮かべてしまうのですけれど。

 しみじみとしたのは、きつかわゆきおの「ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。」(バジリコ)だったりします。橘川はロッキンオンの創刊メンバーということになるのだけれど、それに著作も多いのだけれど、今までやってきたことって、ロックの方法論だったような気がして、それでこの本を書くことで、ようやくロックを演奏できた、そんな感触がありました。音楽って、読むものがなくて聞き取るもの、感じ取るものだとしたら、ようやくそこにたどりついたのかもしれません。
 この本は「深呼吸する言葉」という一連のシリーズになるべきものなのだけれど、これは本当に気の聞いたワンフレーズというもの。ぼく的にちょっとぐさっとくるのは、「友だちとは、暇なときに会う関係、それ以上の関係とは、会うために暇をつくる関係。」とか。
 「深呼吸する言葉」というプロジェクトには誰でも参加できるということになっていて、ブログで展開する、ということになるのです。なんか、やって見たい気もするのですが、実はぼくの言葉って、無用に言葉を浪費する傾向があるので、難しいかもしれません。祖父は俳人だったんですけどねえ。

 男の隠れ家ONLINEではずっと、70年代ロックのコラムを書きつづけていたというのに、最近買ったCDって、BANANARAMAのボーナストラック付きのリイシュー盤だったりします。Rhinoからの再発ということです。初期の彼女たちの曲って、すごく好きなんです。パンクでキュートな音にユニゾンコーラスというワイルドさ。その話しをマニアックに書く機会はあるのでしょうか。