こちら葛飾区水元公園前通信728

 そんなわけで、今年のお正月も例年通り、近所でぼーっとしてます。
 今年の南蔵院の神楽では、茶番の演目がありました。例年、新しい出し物があるのですが、茶番というのは、いわばコント。敵討ちの一幕を演じたのですが、ゆるい笑いというのもなかなかのものでした。ボケとつっこみ、わかってはいるんですが、テンポやコミカルな動きが芸というのかな。

 今年の七福神めぐりは、三郷。マイナーな七福神ではありますが、三郷市観光協会などのバックアップもあって、市内の寺院のあらかたが参加しているというすごいものです。3コース24寺院ですから。というか、このあたりが、いかにも由緒がなさそうですね。
 きっかけは、秋にあった水元公園と三郷公園でのイベントのときに、三郷市観光ガイドをもらったら、紹介されていたというわけです。
 三郷は南部の戸ヶ崎地域、北東部の早稲田、北西部の彦成というふうに分かれていて、つくばエクスプレスと外環自動車道で区切られているといった感じです。まあ、武蔵野線常磐自動車道のインターもあるわけですが。
 ということで、すべてをまわるのは無理なので、2日には歩いて戸ヶ崎コース。水元公園を抜けて、江戸川縁のお寺へ。色紙を買ったら、七福神のお守りまでおしつけられてしまった。でもまあ、いいか。お守りはぼくの携帯についています。
 お寺そのものは、それぞれ由緒正しいのだけれども、メジャーな七福神巡りと違って、お寺そのものもそんなにやる気があるわけじゃなく、誰もいなかったり、スタンプが置いてあるだけだったりします。そう、スタンプなんですねぇ。普通、ご朱印だろう、と思うのだけれども、そんなにたくさんの人が来るわけじゃないので、スタンプというのもしょうがないか、と思うのです。
 ほんとうに、畑の中にぽつんと建っているお寺もあるし、公民館と一緒になっているようなお寺もあるわけですが、まあ、そういうのが、かえってのんびりしていいかもしれない、というところでもあります。
 でも、実はいちばんおもしろかったのは、戸ヶ崎のいなげやの前にある戸ヶ崎香取神社。鳥居をくぐると、ヤマタノオロチジオラマ。まあ、それはいいや。その手前に、香取神社無形文化財、三匹獅子舞にあやかって、怪傑ライオン丸風雲ライオン丸、怪傑ライオン丸Gのフィギュアが展示されています。親切にも、40代以上の人ならわかるでしょう、との説明。さらに、本殿の脇には、スサノオノミコトヤマタノオロチを倒した様子のジオラマ。でも、そのスサノオ両津勘吉だったりします。
 翌日の3日も自転車で七福神巡り。まあ、運動不足にはちょうどいいので。自転車で外環沿いに三郷中央駅まで走ってから、お寺を回り始めたというわけです。早稲田コースは6つのお寺。ただし、弁天が二ヶ所にあるので、スタンプは8つになるというわけです。でも、このコースの最大の収穫は、新三郷駅近く、北側の交差点にある、大福元という中華料理屋。麺は細くて腰があって量もたっぷり。チャーハンは山盛りで出てくるし、そう高い材料を使わなくても、しっかりした味付けや上手で上品な香辛料の使用がなかなかうれしいというところです。息子もばくばく食べていて、店員に何か言われていました。
 まあ、そんなこんなで三が日というわけでした。

 去年、最後に読んだ本は、ジャネット・ウィンターソンの「パワー・ブック」(英宝社)でした。あまりにマイナーな出版社なので、出ていたことも気付かなかったという本でしたが、いちおう、去年の新刊です。白水社の「灯台守の話」にくらべると、地味なカバーで、売れないよなあというような装丁なんですが。確かに、作品としての完成度は、「灯台守の話」に譲ります。けれども、かえって、ウィンターソンが書きたいことというのが、未消化な形で出ていて、けっこう面白いんですけど。
 タイトルはパソコンみたいだけれども、その通りです。主人公はパソコンでいろいろな話を書く、その先はインターネット。いろんな話がネットに入っているし、こちらからもアップできる。そうした中、主人公はさまざまなストーリーが交錯する、そういう状況で、自分の物語も他人の物語も、ネットの中に浮かぶ話に過ぎない、そういうところに落ちつく。それは、「灯台守の話」の原型というか、まとまっていない、空間に向けて放り出されたエピソードの集積、というものになります。それは、形が変えられた、自分の体験だったり、類似点がある既存の物語の一幕だったり。パソコンの端末によって語られた物語の集積こそが、物語としてのウィンターソンではないか、そういう存在でしかないのではないか、そんなことが語られている作品です。語りにおける、一つの試み、とでもいうのでしょうか。
 語るということにおいて、主体が必要なのかどうか。パワー・ブックが明かにしているのは、物理的な主体は不要というものでした。そこに物語があり、ラブアフェアがあるのだけれども、それもすべてはパワー・ブックが語るものにすぎない。パワー・ブックというタイトルは、力の本と訳すには、あまりに皮肉というのか。それは、これまでの書物よりも力のあるメディア、ということなのかもしれません。
 けれども、そこには拡散しかなく、次の作品で灯台守を語り手として設定したというのは、理由があることでしょう。パワー・ブックにおいては、というかネットにおいては、つねに現在でしか語れない、変更可能な状態のものでしかないけれども、灯台には時間の積み重ねがある、そういう違いかもしれません。
 それにしても、ウィンターソンはもっとサイバースペースにはまりこんでいったら、それはそれで面白かったかもしれないんですけれども。

 「電脳コイル」を見始めました。録画してもらったものを、第1話から順に。けっこう、面白いです。現実の空間に重ね合わされるように電脳空間が存在し、それは特殊なメガネで見える、という設定。というか、インターネットそのものが、アクセスポイントなんかなくても、現実の空間に重なっているというイメージかな。だから、インターフェイスもものすごくって、ペットは走りまわるし、キーボードは目の前に現れる。メールも目の前に出てくるし、メタバグは結晶となってころがっている。ウイルス駆除ソフトはお札だし。電脳空間の行動も現実世界の壁なんかに制約される。そして、その世界そのものが、子どもたちの遊び場になっている、というところがみそ。つまり、子どもの間だけの了解事項としての電脳空間というのかな。
 まあ、そういう話を、第5話まで見た、というところです。登場人物がみんなメガネっ子だから見ている、という人もいるという話ですが。
 それにしても、この番組、NHK教育で放送されたせいか、視聴率がかなり低かったそうです。まあ、アニメそのものの現在の実力というのが、こういった状況だとは思うのですが、それにしても。誰も知らないような状況では、どんなに良い作品であっても、注目はされない、という。それでも、一部で高い評価だし、再放送もされているし、それはそれで時間が解決してくれるのかもしれませんけれども。