こちら葛飾区水元公園前通信726

 昨日は、プロデュースした本がようやく納品された。井熊均という人の「ポスト京都時代のエネルギーシステム」という本。とてもいい本に仕上がっている、と思う。二酸化炭素排出を2050年に向けて80%削減していく、そのための最初のビジネスプランとして、あるいは政策提言として、とてもいいと思っている。とはいえ、結局、今年は2冊しか作らなかったな、と思う。ちょっとさびしいかも。
 でもまあ、今の会社で、「本の編集を手伝います」、とかいう話だったのに、「本はいいから、経営をやってよ」というような話になっている、というのが現状。業務委託で経営をしているフリーランスのジャーナリストというのは、あまりいないのではないだろうか。

 本といえば、自分の本の執筆もまだ半分くらいしか進んでいない。どうにも時間がとれない。いろいろな原稿を書かなきゃいけないし、それは、生活のために欠かせない。どうしても本が先送りになってしまう。
 そのくせ、お金にならない文章もせっせと書いているのだけれども。

 書き物といえば、「資源環境対策」という月刊誌に連載してきた「お酒と環境」は来年の1月号でめでたく最終回となった。昨年11月号から、合計15回、足掛け3年である。まあ、よく続けたな、とも思う。最初は5回くらいの予定だったのに。
 次は単行本化、という話はないな。けれども、けっこうまじめに環境のことを書いてきたんだけどな。ブランディングや地域貢献や認証といった話題。
 その「資源環境対策」の別冊の仕切りもしなきゃいけないのだけれど、なかなか面倒な仕事になってしまって、迷惑をかけていて、ちょっと肩身が狭かったりもする。

 それにしても、いい本をつくろうと思うと、手間がかかる、ということはよくわかった。先日も打ち合わせをしていて、「編集者というのはプロジェクトマネージャーですね」という話になって、なるほどそうだと思った。友人が書いたシニアプロジェクトマネージャーになるための本を読んだことがあるけれど、今になって、けっこう役立っていると思う。本なので名前を出してしまうと、横道由紀さん他が書いた「シニアプロジェクトマネージャーへの道」(同友館)だ。そして、そのもう一人の著者と共通の知人の手引きで、先の打ち合わせになった、というのも何かの縁だと思う。

 今日の文体というのは、宮内勝典の「惑星の思考」(岩波書店)に影響されてのことかもしれない。というか、読んでだいぶたつのだけれど、思い出さなきゃいけないということになっている。
 宮内については、昔から関心があった。911を意識した作家活動ということでは、辺見庸池澤夏樹と並べてもいいかもしれない。けれども、なかなかきっかけがつかめなくて。
 mixiの足あとに宮内の名前があったので、訪れてみた、というのが読むきっかけになった。たぶん、小説ではなく、現在の問題意識に対面したかったから。911以後の世界って、どういうものだろうか、と。
 けれども、この本のことは、別のところでゆっくりと書くことにする。
 そういえば、宮内の本を手に取ることができなかった理由というのはある。「金色の象」という作品は、幼い子供を持つ身にとって、あまりにも悲しい話だったので、そこから先に進めなかったからだ。
 でも、今度は新しい小説も読んでみようと思う。

 Photographerの「遥かなり ペ・ヨンジュン」(右文書院)は、とても不思議な本だった。けっこう、ぼくの心がゆさぶられた。
 この本は、ペ・ヨンジュンが出演したドラマをめぐる批評、という形になっている。ペがどれほどすぐれた俳優であるか、それがドラマという枠組みをいかに壊し、再構成しているのか、そうしたことが語られる。
 けれども、この本におけるペ・ヨンジュンというのは、実は著者にとっての鏡である。その感情の一つ一つが、果てしない柔軟さを持った優れた俳優によって反射させられる。だから著者はペ・ヨンジュンの中に自分の感情を発見していく。
 この本は、著者からのいただきものなのだけれども、だからというわけではないのだけれど、積み重なった著者の時間の中に残されてきた破片のようなものが、一つずつはめられていく、そんな気がした。もっと言ってしまえば、著者がかつて好きであり、今も好きなロックミュージックに対する姿勢と少しも変わらない。結局は、ロックミュージックの中に自分の感情を反映させ、音楽の中にはまりこんでいく。そうした許容こそが、音楽のなせるわざだったのだけれども、それをペ・ヨンジュンの演技の中に見出しているということなのだ。だから、その壊れそうなのに走り続けてきた著者の心というものが、あまりにもストレートに文章になっている、ということに、ぼくの心がゆさぶられた、ということになる。多分、読点がやたらと多い文章は、常に引っかかるようにできているのだろう。

 岩谷宏の「ぼくらに英語が分からない本当の理由」(オンブック)を読んでいて、思い浮かべたのは、サミュエル・R・ディレーニー。20年以上も前に書かれた、旧タイトルは「ニッポン再鎖国論」というロッキン・オンから出た本。当時、ぼくには岩谷の書くことはむずかしくてよくわからなかった。今でも難しい。けれども、これはSFを読んできた人間にとっては、ディレーニーなのである。
 安易なSFでは、異星人といえども、人間と同じような思考パターンを持つように描かれる。けれども、そもそもそうだとは限らない、オルタナティブな思考パターンを描けなくてどうする、というものだ。「バベル17」というのは、まさにそういう言語をめぐる話だった。
 けれども、そもそも、英語と日本語で背景となる思想が違っているのに、相互に意味が通じるというわけではないだろう。モノがあって言葉があるのではなく、言葉があることでモノが規定されるのだから。ウサギはウサギだけれど、rabbitとhearは違う(スペルは合ってる?)。カエルでも時計でもいいけれども。もちろん、コトはそんな単純なものではなく、岩谷は「I am a boy.」と、「ぼくは少年です」の間で、boyはモノだけれど、少年はコトだと言う。boyというモノであること、少年という状態であること。そうした差異は、ディレーニーのSFで何度も描かれてきたことではなかったか。
 そうであるのに、語学系の出版社で仕事をしているわけなのだけれども。

 梅田望夫の「ウェブ時代の考え方」(ちくま新書)は、無理があるよなあって思う。ウェブ時代っていうのは、ある部分までは情報は簡単に手に入る。また、簡単に提供できる。そこから先、自分で付加価値をつけていく「けものみち」を歩くのか。それとも企業の中で集団で歩いていくのか。フロンティアはある、というわけなのだけれども。
 でも、ぼくは梅田ほど楽天的ではない。「けものみち」は死屍累々という感じなのだと思う。そこを歩くだけのスキルをどれほどの人が持っているのか。また、歩いたところで、どれほどの報酬があるのか。もちろん、生き方そのものを考え直すべきなのかもしれない。ただ、一方でそうしたフロンティアを示しながら、けれども「けものみち」を歩く人々を企業が便利な労働力としてしか捉えないのだったら、それは果たして認められるべきなのだろうか、と思う。
 また、一方で、時代が要請するスキルを身につけているにもかかわらず、けものみちどころか沼地を歩かなきゃいけない人たちがいる。例えば介護事業のスタッフであり、あるいはアニメーターである。
 梅田の考えを全て否定するものではない。フロンティアは、たぶん、ある。それは人によっては十分に歩く価値があるものだ。でも、誰もをそこに向けなくてもいいだろうと思う。
 「ウェブ進化論」で話題になったロングテールだって、アマゾンにとってはいいかもしれないけれども、出版社にとっては、ロングテールばかりをつくるわけにはいかないのだし。まあ、もっとも、本音では実を言うと、あえてロングテールをつくろうとも思っているのだけれども。まあ、それはいいや。

 葛飾区ビラ配り裁判の再審で判決が出た。結果は有罪。
 確かに、マンションに入り込んでビラを配布したら、住居不法侵入になる、というのは微妙なところだ。でも、それで逮捕というのは、別の問題だと思う。被告が主張するように、「表現の自由」ということが問題なのかどうかは、正直、少し違うと思う。
 法律というのは、あいまいさがないように作られている。そうであるにもかかわらず、結局は運用する者の解釈に委ねられてしまうという面がある。それは学校における君が代の問題でも同様で、国会答弁で強制はしないと言っていたにもかかわらず、結果として強制されている。
 マンションに入り込んでビラを配布することが、住居不法侵入にあたるのかどうかといえば、あたるのだろう。結局は、そのことについて、適切な運用がなされたのかどうかが問題だ。そして、それは適切な運用ではなかった、ということであるべきなのではないだろうか。運用面から行き過ぎであったとすべきことだと思う。
 共産党のビラだから逮捕されたという。確かにそうなのかもしれない。住民の通報があったから、そうかもしれない。けれども、そのことでどれほど住民の権利が侵害されたのだろうか。そうした点から検証すべきことではないか。
 気に入らない奴は微罪で逮捕できる、そういう社会になっている、ということがどれほど大きな問題なのだろう。

 光市母子殺害事件における被告へのバッシングは、こうした微罪逮捕の問題に対する人々の想像力の無さと対照的な姿をしている。
 被告や弁護士へのメディアの異常なまでのバッシングは、さすがに問題視されるようになってきた。それでもなお、というのはある。
 まず、弁護団が一審とは主張を変えたということについて、批判の前に、メディア自身がなぜそうなのかを検討すべきだ。
 一審の時点では、被告は少年法の下で死刑は免れられるという判断があった。そこで、検察の強引な主張に屈したという想像ができる。
 いかに日本の警察・検察の取調べが常軌を逸したものであるかは、よく知られているはずだ。そのことが、いかに冤罪を生み出してきたのか。そうした暴力に対して、容疑者は何も保護されることはない。
 だが、二審において死刑という可能性があるとなれば、それは一度屈してしまった暴力に対して、再び反抗してもいいはずだ。被告が置かれていた状況を考える上でも、被害者と加害者は非対称だったということが考えられてもいい。そうした中で起きた犯罪について、加害者の置かれた立場が少しも考慮されないのであれば、あまりにも救いがないと思う。

 ぼくたちは現在、いつでも容易に微罪逮捕され、あるいは冤罪によって異常な取調べを受けかねない状況にある。また、いつ加害者になるとも限らないし、被害者の遺族になる確率と加害者の親族になる確率は、おそらく等しい。そうであるにもかかわらず、表面的なことしか見えず、想像力が働かないまま、微罪逮捕を容認し、加害者をバッシングするというのは、そのしっぺ返しはやってくるものだと思う。

 COP13が先週終わった。バリ・ロードマップが採択された。けれども、数値目標は欠落している。それでも成果があって良かった、のだろうか。COP/MOP3はどこに消えてしまったのだろうか、とも思う。
 2050年に世界のCO2排出量を半減する、という。けれども、そのための想像力をどれほど使っているのだろう。2050年、日本はCO2を80%ぐらい削減しないと、途上国は納得しないだろう。事実、ヒラリー・クリントンアメリカのCO2排出量を80%削減する、としているのに。

 日経サイエンスの12月号は食糧問題の特集。意外なのは、途上国でも多くの人が肥満という問題を抱えているという。アメリカの話ではない。けれども、肥満だからといって豊かだとは限らないということも事実なのだけれども。

 このところ、深夜まで金町のマクドで仕事をする日が増えている。コンセントはあるし、落ち着くので仕事がはかどる、のだけれども。そういう生活でいいのか、というのはある。