こちら葛飾区水元公園前通信723

金曜日(23日)は、息子および友人Aと大宮に新しく出来た、鉄道博物館に行ってきました。混んでいるといううわさでしたが、まあ、そこはそれなりに確かに混んではいました。別に、テツではないですが、入場料1000円で列車乗り放題っていうのがいいですね。って、別に動くわけじゃないんですけどね。
 おじいさんが一人で座っているボックスシートに相席させてもらったら、いやあ、昭和30年代くらいまでは、この客車があったんだよ、小さい子なんかは、網棚に乗せて、落ちないように縛っておいたんだ、なんて話してくれました。うちの息子を見て、これだけ大きいと、もう乗らないけど、なんて。
 昼食は駅弁、ぼくらが最後の2個を買い、今日は完売。特急列車あいづのシートで食べたのでした。
 鉄道博物館のえらいところは、とにかく車両がたくさん置いてあるということなのかな、と思うのです。細かい知識ではなく、そこに過去の車両の持つ時間が置いてある、ということなのではないか。そのシートの硬さやつり革の高さ、そんなことが十分にいろいろなことを語ってくれる、そういうものなのではないか、と思うのです。
 そんなわけで、けっこう満足したのでした。

 翌日の土曜日は、息子と児童館(正確には、家庭子供支援センター)に行き、息子を勝手に遊ばせていました。娘はかみさんと音楽会、だとか。
 息子が本を読んでいる間、ぼくも佐藤弘道の「子供は悪くない」(講談社)を読んでいたりしました。子供は悪くない、そうですよね。でも、その子供がやがて親になるわけですから、ぼくは「親も悪くない」と思っています。いや、児童虐待の話では、ない、わけでもないんですけど。
 いや、フェミニズムの成果として、これは書いておくべきだと思うのですけれど、家父長制に異議を唱えることって、大きな意味があったと思うんです。というか、親は当たり前のように親であるわけではないし、誰もが「親」という役割を、文化が規定したような形で受け入れられるわけでもないし、という。佐藤は、親だけじゃなく、まわりの目も、って書いているけれど、ほんとうにそういうものだと思う。育児を地域社会が取り戻す。そういう社会になってもいいなっていう。
 ぼく自身も、娘の友達など、近所の子供とつきあっていて、そう思う。

 ジャネット・ウィンターソンの「灯台守の話」(白水社)は、今年のベスト1かもしれません。
 デビュー作の「オレンジだけが果物じゃない」や「さくらんぼの性は」では、自伝的な話を神話やマジックリアリズム的手法で書いていたし、それがすごく評価されていました。ぼくは、後の「恋をする身体」がかなり好きなのですが、この作品はなんだか評判が悪かったですね。リアルな描写によるレズビアンのラブストーリーですから。まあ、それなりに、いろいろこってはいるんですけれど、ストレートすぎたのかなあって。
 新・世界の神話シリーズの「永遠を背負う男」を経て、最新作はやはり、過去と現在、親子の物語を交錯させる、そんなスタイルをとった作品でした。
 主人公はシルバーという女性。彼女は断崖絶壁の家で母親と暮らしてきたのだけれど、母親がそこから落ちて死んでしまい、灯台守のピューに預けられます。そこで、ピューから、かつてこの地にいたダーク牧師とその父親をめぐる話を聞かされます。その話は、シルバー自身にもからんできます。
 訳者が書いているんですけれど、「お話」にしてしまうことで、自分の体験もフィクションとして距離がとれる。たぶん、そういう過程が、「オレンジ」以上に進んだ、そういうものかもしれません。それは、人は変わるけれども、灯台は変わらずに海を照らし続けている、変わらないものと盛衰があるものが交錯する、その中にぼくたちがいる、そんな単純な真実の中に、すべてを収めておるというものです。
 ぼくは、ウィンターソンのベストだと思っています。

 辺見庸の「たんば色の覚書」(毎日新聞社)を読むということは、それは本を読むということとはすごく異なっていると感じています。ジャーナリストとして新しいことを語っているわけではない。けれども、深いところにどんどん入り込んでいる。辺見が健康を害しているということは、もはや周知のことです。けれども、それを前提として、深く入り込んでいる、それは、多くの人の価値観をゆすぶるもののはずです。けれども、きっと、この本だけを読んだら、そこまではまることはできないとも思います。
 具体的に言えば、余命いくばくもないかもしれない辺見と、余命は政府に握られている死刑囚との対話というのは、どのように捉えるべきなのか、ということです。

 そういうわけで、八木教広の「クレイモア」を13巻まで読みました。面白かったです。
 「ベルセルク」みたいに救いがないけど、というのがかみさんの表現。けど、もっとゆるい。
 妖魔がうろうろする世界で、妖魔の力を得た戦士、クレイモアがこれを退治する、という設定なんだけれども、それを指導するのが男性。そして、クレイモアもあるとき、妖魔の力がまさるようになり、「覚醒」してしまう。その前に殺してもらう、という掟。
 クレイモアになってしまうと、もはや人間の身体なので、ラブアフェアなど考えられない。
 という話なのだけれども、でも女性を主役にするということは、クレイモアというのは、聖母でもある、という、とても単純な構図。その単純さに、ぼくはうかつにもはまってしまう、そういうものかもしれません。
 大陸は、3人の覚醒者とクレイモアを擁する勢力、東西南北の争いということになっている。けれども、クレイモア自身がこうした勢力から脱し、自分自身を取り戻そうとする。そういう流れです。そこで13巻が終わっている、まあ、ここまで読めばいいかな、というところですが。
 で、この「クレイモア」にすっかりはまってしまったのが、うちの娘です。このはまりようは、「セーラームーン」以来、みたいな感じ。なんでなのかなあって、興味があるところです。最近は、自分でオリジナルのクレイモアの絵を描いているくらいですから。