こちら葛飾区水元公園前通信721

 最近、目覚ましの音楽を娘に「セーラームーン」に変えられてしまった。Rのときの、各メンバーが歌っているという。しみじみと、三石琴乃のうすっぺらな声が、このアニメには不可欠だったなあ、などと思うのであった。それと久川綾の包容力のある声ってか。
 気がつくと、三石琴乃は、今ではのび太のおかあさんの声、ということになっている。時間は流れている、としみじみと思う。
 明日から、目覚ましの音楽を、ウルトラオレンジ&エマニエルにしようと思う。

 今週は、つい、いろいろなイベントに行ってしまった。忙しかったのだけれども、というか、仕事で行ったのもあるのだけれども。
 明日で終わってしまうのだけれど、初台にあるオペラシティのNTTインターコミュニケーション・センターで開催されている坂本龍一と高谷史郎によるインスタレーション「LIFE−fluid,invisible,inaudible...」は、タイトル通り、とでもいうのかな。会場には天井に3×3の9個の水槽があって、大きさは1.2m四方。そこに人工的な霧が出て、それがスクリーンとなって、さまざまな映像を映すというもの。波の映像などとともに、第2次世界大戦次のドイツの映像などがはさまる。それだけを提示してしまうと、とても凡庸なものになってしまうのだろうけれども、音やその他の映像がはさまることによって、とりあえず自分たちが地球の中で、歴史のある瞬間にいる、というどうしようもない現実を伝えてくれる、という。寝転がって見ると、眠くなるし。とりわけ、政治家へのインタビューという緊張する仕事のあとに行ったので、そう思いました。
 まあ、ぼくも1時間近く寝転がって見ていたわけですが、それはそれでいい体験でした。
 あと、ここのギャラリーにはいろいろとおもしろいものが展示されているので、そちらもおすすめです。説明しないけど。

 10月30日に早稲田大学の大隈小講堂でザ・ボディショップの活動を中心とするビジネスセミナーがあって、これが短い時間だったけれど、強いメッセージ性を持ったいいイベントでした。ボディショップの創業者のアニタロディックは今年月に急逝してしまったので、その追悼ということもあったのだけれども。
 ロディックはI am an activistを合言葉に、化粧品の動物実験の禁止などを求め、原材料のフェアトレードのために世界中に足を運んだという人。結果として、ビジネスは成功したけれども、最初からうまくいったわけじゃないし、それでもなお、ビジネスと社会貢献が一致するという、そういうことでした。
 ビッグイシューも、彼女の支援があってスタートしたかと思います。
 そんな彼女のボディショップについて、ピーター・ピーダーゼンがプレゼンし、そうした意識を持った起業家を交えたパネルディスカッションが行なわれたけですが。集まった人のほとんどは早稲田の学生だったと思います。会場への質問で、チャンスがあったら起業したい人は約半数、ビジネスを通じて社会を変えられると思う人は7割。なかなかいい数字です。
 ぼくはというと、少なくとも出版社にとって最大のCSRは出版することだと思っているので、そういうことで。

 同じ30日に日比谷野外音楽堂で開催された、「障害者自立支援法廃止」を訴える集会。
 昨年施行されたこの法律は、障害者福祉に介護保険と同じ1割負担を求めたというところを中心に大きな問題を残した。1割負担ということは、重度の障害者ほど負担が重くなるということ。その上、さらに行政の負担が小さくなるしかけがあちこちにほどこされている。外出支援は、1目的1時間で月36時間。たったそれだけの外出でどれほど人間的な生活になるのか、という。事業所への報酬も事実上減額され、平均給与は一般と比較して15万円/月も低い、という。
 たぶん、障害者自身に負担を求めるというのは、ある意味では正しいと思わないでもない。十分な生活保護などの経済的支援があった上で、必要なサービスを自己決定できるということは、悪いことではないとは思う。けれども、土台がないところには、何も乗っていかない。
 事業所への報酬が低いというのは、介護も同様だけれども、「パートタイムで成立する事業なのでこんなものでいい」という発想があるような気がしてならない。これはかなり昔に書いたことだけれど、高度経済成長を支えた安い労働力は、専業主婦というモデルによって構築された核家族の中で、でも所得が十分ではなく、パートとして再雇用された人々だったということ。その発想から抜けられない行政の考えというのは、人々を幸せにしないと思う。そうであるにもかかわらず、先月、介護関係のイベントで「介護労働者の平均給与はかなり低いようだけれど、女性一般の平均給与よりは少し低いだけなので、あともう少しあればいい」と発言した人がいて、唖然としたりもした。
 いろいろな議員が来ていたけれど、悪いけれども国民新党自見庄三郎はダメだなあって思った。日本医師会出身で、いろいろとやってきたことをアピールしたところで、だからどうなのっていう。そもそも、衆議院解散前はこの法律を進めていた政党に所属していたわけだし、そういうところも反省してほしいよな。
 それはともかく、与党側は法律を推進した側なので、歯切れが悪かったというのは事実。けっこう、公明党あたり、ブーイングを受けていた。その点、攻める側の民主党共産党社民党は拍手が多かったというか。

 そんな毎日でしたが、ジャン・エシュノーズの「ラヴェル」(みすず書房)は、不思議な日本語が気持ち良いです。元々のフランス語のリズムが、エシュノーズによって音楽的に構成されていて、それを再現しようとした訳者の苦労は十分に報われていると思う。まあ、ぼく自身、よく破壊された日本語を使うので、なんですけれども。
 ラヴェルって、あの「ボレロ」を作曲した人、ということしか知らないんだけれど、その晩年、壊れていくようすが、それでも悲しさや哀れさというのではなく、終幕曲という感じで流れていく、そんな作品。ただし、好みから言うと、そういうところが完璧すぎる小品になっていて、「われら三人」や「マレーシアの冒険」ほど楽しめないかもしれない。

 諸星大二郎の2冊目の短編集「蜘蛛の糸は必ず切れる」(講談社)は、タイトル作はもちろん芥川の小説のリメイク。なかなか楽しい地獄での脱出劇に仕上がっている。個人的に好きなのは、意外なミステリー的展開になる「船を待つ」で、単純な不条理劇になっていないとこ。けれども、実は、「いないはずの彼女」や「同窓会の夜」のようなマンガにしにくい話がいいのかもしれない、とも思う。

 「クレイモア」、まだ読んでいない。