こちら葛飾区水元公園前通信718

 先日は、順延となっていた娘の小学校の運動会を見に行きました。平日だったので、仕事をさぼって。でも、けっこうがんばって、走ったり踊ったりしているので、やはり見てあげるのは当然ですよね。まあ、そのあと、遅くまで仕事をすることになるわけですが。

 10月の新番組、なんとなく、いろいろと見てしまいました。
 「キューティーハニーThe Live」は、実写版ですけど。如月ハニー原幹恵っていう人かな、どうも、40年前の小林幸子っていう感じで、いや、まあ、いいんですけど。
 「魔法先生ネギま」、知らない人に「ハリーポッター」を日本でもドラマ化したんだよって言うと、信じるだろうか。女子高生をたくさん出せばいいというもんじゃないと思うんですが。
 「逮捕しちゃうぞ フルスロットル」は、まあ、お約束のお話というか。
 って、深夜番組ばかりですね。そんな時間まで仕事をしていた1週間でした。
 来週は名古屋出張、それに12日はビッグサイト東京のグルメ&ダイニングショーでお酒のブースにいて、お酒の試飲をやってます。遊びに来てください。

 ケネス・S・ディフェイスの「石油が消える日」(パンローリング)とか、上野加代子編著「児童虐待のポリティクス」(明石書店)なんかを、仕事がらみで読んでいました。

 「石油が消える日」は、石油会社に所属する地質学者が、ピークオイル(安い石油がなくなること)は本当なんだよっていうことを、きちんと論証し、まあ役に立ちそうもないように見えるけれど、それでも再生可能エネルギーに投資したほうがいいよ、という結論を出している本。いや、日本ではそんなようには思えないけれども、海外では再生可能エネルギー投資はブームですから。

 「児童虐待のポリティクス」は、まあタイトル通りの本なのだけれども。そうだよなあって思ったのは、虐待の背景に、貧困があるっていうことはともかく、だから虐待を防止するためには、児童を保護するだけではなく、家庭そのものの貧困を解決すべきだということ。
 虐待が起きている家庭は、相対的に母子家庭や父子家庭が多く、しかも、低学歴の親が多い。だいたい半分は世帯収入が生活保護水準以下だけれども、実際にもらっているのは1割程度。そうした家庭で虐待されている児童は、保護されるべきだけれども、子どもにとっても家庭にいた方がいいということもあり、家庭そのものを支援していく必要もあるということだ。
 ぼく自身は、何より子どもの安全を優先させるべきだとは思っていたけれども、確かに貧困という要因を取り除くことで解決できるのであれば、それはより良い手段だとは思う。
 メディアで報道される事件は、そうではない痛ましい事件が多いけれども、それは全体を代表するものではない、ということなのだろう。
 もっとも、日本の行政の窓口は、生活保護をなるべく断るという方向で対応している。病気で働けない人、すぐに仕事が見つからない人に対して「そろそろ働きなさい」という指導をして、生活保護を打ち切り、その結果、餓死してしまうという事件すら起きている。さらに、行政に助けを求めるということすら、理解していないために貧困に陥るというケースすらあるだろう。そしてこのことは、児童虐待のみならず、貧困問題の奥の深さを示しているし、高齢者とりわけ一人暮しや高齢者夫婦世帯、さらには高齢者親子世帯において、今後はさらに大きな問題となるのではないか、と思う。

 でも、そうは言いながら、考えてしまったのは、大屋雄裕の「自由とは何か」(ちくま新書)だったりする。
 サブタイトルは「監視社会と「個人」の消滅」ということで、これは何となくわからないでもない。あちこちに監視カメラがあり、プライバシーなんかないけれども、その結果として現実に事件の犯人が逮捕されたりもしている。それはどっちがいいか、というとどっちともいえない。
 けれども、大屋の指摘でもっと重要だと思ったのは、成年後見人制度のこと。実は、自己決定できない人、たとえば認知性などをわずらっている高齢者の場合、事実としてリフォーム詐欺にあっている。だからこうした犯罪を防ぐために、後見人によって不合理な契約などが排除されるという制度。だが、ではいかに不合理なリフォームであっても、本人にとって本当に必要ではないと言えるのかどうか。その人の生において、自分の財産で契約を結ぶという自由はないのか、ということにもなる。
 貧困という問題を語るとき、「自己責任」ということが良く言われるが、決してそうではないと思っているし、そうではないというのが最近よく言われている主張。格差は遺伝するとか、下流社会とか、そういった言葉が出てくる。そこに、学歴がからんでくる。
 けれども、働かなくても、貧困の中で暮らす自由というのはないのだろうか、という。あるいは、高齢者に対して、社会参加をうながすというのも、介護予防の施策の一つとしてあるけれども、でも社会参加しないという自由もあるのだろう。それは、大屋によって、孤独死する自由として語られる。それはそうかもしれない。
 インターネットの世界には、けっこうプライバシーがない。アマゾンは勝手に人の購入履歴を記録していて、おすすめの本を紹介してくれる。余計なお世話だって思うのだけれども。グーグルがメール内容を勝手に読みとって、広告をするっていうのだったっけ、そんなのがあったと思うけれど、これはさすがにダメになったんじゃなかったっけ。
 そんなわけで、やっぱり自由っていうのは、まだまだ論じられるべきものだとは思う。

 加門七海の「祝山」(光文社文庫)、怖いけど拍子抜けシリーズも、ちょっと繰り返されるとなあ、というのは、ちょっとありました。「203号室」のときは、現代の怪談というところでいいのだけれども、祝山の場合、舞台こそ現代だけれども、曰くありげな山ということなので、そういう巻き込まれ方はもっとあってもいいんじゃないかと思う。

 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の157巻、テーマはおサルの電車。まだ東園にあったころ、というかまだ小学校入学前に、乗ったことがある。電車そのものは変遷があるのだけれど、ぼくの記憶にある電車が登場していたので、なつかしいというか、ひさびさに思い出してしまった。いや、「ゆりかもめ」ができたとき、運転席におサルを乗せたいなあってずうっと思っていたっていうことも、思い出してしまったな。

 今井明が写真と文を書いた「明日をください」(アットワークス)は、アスベスト被害者のルポ。明日がない人の写真がいっぱい掲載されている。いろいろと感じることはあるのだけれども、ここではやはり、政府がいかに人々を犠牲にしてきたのか、というのが、今でもなお繰り返されているということを指摘しておきたい。書くべきことはいろいろあるので、なかなか書けないのだけれども。

 今日はこれから、町内会の赤い羽根募金を集金しなきゃいけないのであった。めんどくさいよなあ。