ミリキタニの猫

 映画も公開されたことだし、先月の月刊「介護保険情報」に書いたレビューを公開してしまうのであった。

 いや、とてもいい映画ですよ、ホント。

■ 終わりよければすべてよし
 羽田澄子演出
 (自由工房製作・配給)
ミリキタニの猫
 リンダ・ハッテンドーフ監督
(パンドラ配給、晩夏よりロードショー)

今回は2本の映画を紹介したい。一つは「その人らしく死ぬ」ための映画であり、もう一つは「その人らしさを取り戻す」映画である。
羽田澄子演出の「終わりよければすべてよし」は、在宅における終末期医療をテーマとしたドキュメンタリー映画である。
言うまでもなく、この50年の間に、死を病院で迎える人は自宅で迎える人を逆転している。「畳で死ぬ」ということが遠い過去の話になっている。しかし、それは「ただ単に生命を永らえさせるだけの治療であり、安らかに死を迎えるにはほど遠い」という批判がある。そこから、終末期医療をどうするのか、ということが今日のテーマとなっている。
この映画は、自宅の、あるいは生活空間における終末期をテーマに、日本、オーストラリア、スウェーデンの状況を取材したものだ。中には撮影の数日後に亡くなられた方も何人かいる。そうした状況であってもなお、やすらかな中にいる高齢者や末期ガン患者の姿というのは、「安らかに死を受け入れる」というものである。そこには悲しみがない。
単に、苦痛を取り除く医療をしているというだけではない。むしろ終末期をいかに家族と過ごすのか、自宅かどうかよりもこの点こそが、本質なのではないか、と思った。だから、ある特養では、家族が入居者に食事を与えやすいように、入居者のコンディションを整えることまでする。家族もまた、ゆっくりと死を受け入れる、そういうものなのかもしれない。

 ジミー・ミリキタニ氏は、ニューヨークの路上で生活し、絵筆を走らせる画家だった。9・11の日もまた、同じように暮らしていた。この80歳の画家の過去に何があったのかが、このドキュメンタリーのテーマだ。ミリキタニ氏は第二次世界大戦中に日系人強制収容所に送られ、そこでアメリカに抵抗して市民権を捨てた。そして肉親と離れ離れになった。出身地は広島、原爆が落とされた場所である。まさに、アメリカの暴力に翻弄された人生だということになる。
監督は9・11の後、ミリキタニを自宅に招き入れ、ともに暮らしながら、過去を探し、行方不明の姉までも見つける。路上から新たな暮らしに引き込まれ、日系人の「過去」を持った画家として、自分を取り戻していく。
 ミリキタニ氏が新たな生活を始めるにあたって、過去を取り戻すことは重要だった。そのことが「路上で暮らさない理由」なのだから。だからこそ、病院で死ぬことの不幸というのは、「過去の暮らしが遠ざけられた中」で死ぬことなのではないかと思う。
 「ミリキタニの猫」というタイトルは、彼が書くやさしい瞳の猫の絵に由来している。だが、一方で彼は収容所の絵も描いている。過去を取り戻すまでは、猫がまどろむ鮮やかな花の絵だけが、ミリキタニ氏の自宅だったのかもしれない。
元気なミリキタニ氏の姿は、観客まで元気にする。当人、この夏には来日するとのこと。
(2007年8月号)