こちら葛飾区水元公園前通信696

 たまたま、「セクシーボイスアンドロボ」(日本テレビ、午後10時)を見ていて、綿矢りさの「蹴りたい背中」(河出文庫)とかぶってしまった。
 ドラマの方は、7色の声を持つ女子中学生のセクシーボイスと実はいろいろな能力があるロボットオタクのオタリーマンであるロボがペアがスパイとして活躍する、というわけのわかんない話なのだけれど、そういうのって、ぼくは好きだ。主演の大後寿々花のストイックな演技がとてもいい。というか、ダメだろコイツ的なオタリーマンをうまくリードする役割なので、難しい役なんじゃないか、という。オタリーマンもそれなりに大人のところを見せなきゃいけないし。恋愛関係になりそうもない男女設定だし。そういう微妙さがはまっていて、第一回はけっこう楽しかった。
 「蹴りたい背中」は高校生の話。主人公のはせ川は何となくクラスになじめない。友達もいるけれども、何か離れていくような気がしてならない。孤立していくという女の子。ふと仲良くなったのが、同じクラスの男の子のにな川なんだけど、彼はオリチャン(エビちゃんみたいなイメージかな)というアイドル/モデルの熱烈なファンで、着ている服までコレクトしてしまうから、オタクですね、これも。したがって、主人公と仲良くするけれども、あまり眼中にない。ただ、実物のオリチャンを見たことのある人ということで、コレクションの一部になっているようなものかもしれない。
 「蹴りたい背中」というタイトルが示すように、こんな奴の背中は蹴りたくなるよなあ、と思う。にな川もまた、クラスで孤立しているけれども、オタクなのであまり気にしていない。主人公は孤立に共感しているのに。
 孤立という欠落を他者に求める、という中で、自分自身のアイデンティティを見出そうとする、けれどもその不完全さが蹴りたい背中となって現れる、そんな話だと思う。けれども、蹴りたいような背中だからこそ、自分自身の中に取り込める、自分のものにできるものなのかもしれない。立派な背中であったら、それは自立していて、自分がいなくても成り立ってしまうものだろう。
 それは「セクシーボイスアンドロボ」のロボも同じなんだけれども、ロボはそれでも大人である。オタリーマンだってダメダメなようでいて、でもまあ大人だし、テレクラにも通っているくらいだから女性に対する接し方も知っているし、けっこう好感が持てるキャラかな。
 こうして見ていると、ダメダメの部分に他者のアイデンティティが入りこむ余地があるのかも、とも思ってしまう。「蹴りたい背中」はそのダメダメの部分に入り込むことで安定しようとする女の子の話だったし、「セクシーボイスアンドロボ」ではそのダメダメの部分を共有することで何か安心してしまえる、そんな気持ちの良さを持った話なのではないか、と思うのであった。」

 大塚将司の「死に至る会社の病」(集英社新書)は、実は株式会社の歴史や国による違いを明らかにし、日本の株式会社制度をどうすればいいのかという本。最初こそ、ワンマン経営の問題が語られるけれども、そういう今日的な問題をばっさり、といういかにも元日本経済新聞の記者といったわけではなく、日本経済センターの研究員という側面で展開している。だから、ジャーナリスト的なものを期待すると肩透かし。でもまあ、株式会社の歴史が簡単にわかるので、それはそれで勉強になる。

 吉野文雄の「東アジア共同体は本当に必要なのか」(北星堂書店)は、結論は不要ということなのだけれども、だったら結論を早く書け、と思ってしまう。でもまあそこは学者の書物なので、実証を重ねていくスタイルというのは、我慢していけばまあいいか、と。
 ぼくも不要だと思う。東アジアは一様ではないし、その中で日本がスポイルされているような状況ではできないだろう。
 と思うのであった。

 それにしても、昨日の太田総理はけっこうおもしろかった。日米同盟は一旦白紙に戻すというマニフェストを取り上げてしまう日本テレビというのは、それはそれでいいんじゃないかっていう。第二秘書が今回から山本モナに。