ぼくも東京から考える

 東浩紀北田暁大の本に触発されて、何となく、書いてみた。

 以下の通りである。

 ぼくも東京から考えてみた

 「東京から考える」というのは、東浩紀北田暁大による著作。1971年に生まれ、東京郊外で育った二人による、都市論というか、社会論というか。
 1962年に生まれ、東京の僻地で育ったぼくとしては、どうなの? っていうのはある。ということで、議論をなぞってみたい。

   渋谷から都市を考える

 ぼくにとって、渋谷が姿を現したのは、80年代。就職して大崎に住むようになって、とても近くなった。自転車で行けるところですらあった。
 80年代初め、友達と飲みに行ったという記憶がある。すでにパルコができていて、西武の文化によって造りかえられていた。それ以前の渋谷というのはよく知らない。東急東横店がその香りを残しているのかもしれない。
 渋谷にあったものというと、玉電だろうか。世田谷区の入り口とでもいうのか。少し歩き、松涛まで行けば、そんな雰囲気だ。
 かつて、渋谷の文化は駅の東側にあった。文化会館なのである。プラネタリウムもあった。だから、西側にセゾン文化がつくられ、それが東急本店にまで及ぶ。東急本店の位置は、高級住宅街と商業都市の境だったはずだ。
 メジャーな映画は文化会館だったが、むしろ渋谷のそれは、ユーロスペースであり、シネセゾン渋谷であり、シネマライズだった。やがて、東急本店もまた、BUNKAMURAを隣につくることになる。
 セゾン文化は清潔なものだった。泥臭い文化は、どこかに移転してしまう。例えば、ライブハウスの屋根裏。かわりに、SEED HALLやパルコパート3で演劇がある。やがてクラブクアトロができる。そうであってもなお、センター街だけは、子供がたむろすることができる世界だった。
 渋谷は意識的に文化を創ろうとした都市だった。セゾン文化という枠組みとオルガン坂といった路地の共存。タワーレコードとシスコとWAVEでそこそこ流行りのレコードが買えた。マニアックなものはない。居酒屋はどこもやけに明るかった。
 本は、マニアックなものが買えた。ロフトの中だったかな、ぽるとぱろうるがあった。
 そこまで人工的な地域であったにもかかわらず、それはやはり壊れていく。そもそも、宇田川町のホテル街があり、その近くにまんだらけができる。マークシティはそこから浮き上がっている。足元は、渋谷の中でも最後まで取り残された一角であり、今も変わらない。
 ぼくが渋谷に足を運んだのは、97年ごろまで。まだ渋谷は壊れていなかった。
 渋谷が秋葉原と比較されるとき、秋葉原がオタクの街であり、渋谷がそうではないということにはならない。セゾン文化を背負った広告都市だったかもしれないが、その不可能性を、2000年代に示してしまったといえる。都市は、1企業の文化戦略でどうにかなるというものではない。

 ジャンジャンが90年代まで生き残ることができたのは、それが場所的にも文化的にも境界にあったからだろうか。アンダーグラウンドの空気を持ちつつも、パルコの劇場に負けないステイタスを持ち、公園通りという原宿との境やNHK、渋谷公会堂に近かったという。
 渋谷の映画館やレコード屋には足を運んだが、飲みに行くのは新宿だった。広告都市の中では、飲むことができなかった。通り抜けることしかできなかった。

 新宿は自然発生的な文化があった。新宿ロフトはもはや聖地とも言えるライブハウスだった。同じ西新宿にはマニアックなレコード屋がたくさんある。ぼるがもヴァガボンドもあったし、しょんべん横丁もあった。東側には伊勢丹があり、その先には新宿二丁目があった。本の雑誌に出てくる居酒屋もみんな新宿の東側だった。

 銀座は、老いた都市だった。銀座のクラブといえば、高級なのかもしれないが、たぶん、何も生み出さないところだったと思う。それはバブルなお金のターミナルだった。東京の東側の限界を受け止めてしまっていた。
 90年代、ぼくは銀座を職場にしていた。CDを買おうと思っても、山野楽器とHMVしかなかった。本は近藤書店と教文館キリスト教関係の本を買うのなら良かったのだろうけれど。もっとも、近藤書店は、狭いわりには、きちんと外国文学の本を仕入れていて、好きだったのだけれども。でもなくなってしまった。あと、旭屋書店があった。ビジネス書を探しやすかった。マンガを買える本屋がない、というのが決定的だった。

 秋葉原はオタクによって復活した街なのだろう。電気街というのが売りだった。昔は、冷蔵庫でもステレオでも秋葉原に買いに行ったものだ。安かったからだ。でも、いつのまにか、カメラヤがその地位を奪ってしまった。有楽町のそごうは今ではビックカメラである。大阪でもっとも集客力があるのは、USJではなく梅田のヨドバシカメラである。カメラヤ以外でがんばっているのは、コジマぐらいのものだ。家電製品を安く買える店がどこにもできてしまえば、秋葉原に行く必要がない。
 もっとも、元々秋葉原はオタクの要素があった。そもそも、無線オタクの街だったのだから。
 そういえば、神田の古本屋街はどうなのだろう。それなりの古本でもないと。ブックオフもあるし、アマゾンでは探さなくても検索すれば出てくる。

   金町から郊外を考える

 川崎市青葉台というと、結婚を考えていたときに、新居として不動産屋が紹介してくれたところでもある。でも、ぼくは小田急沿線の、例えば百合ヶ丘の清潔な住宅街はいやだった。
 金町のいいところは、新しい住宅街になれなかったところにある。適当に新築住宅があって、適当に地主の元農家(現役の農家もある)があって、町内会も何となく活動していて、という。住民の多様性があるということだ。そのことが、とても居心地がいい。住民間に格差がある。けれども、それはさておき、と言ってしまえるところがある。
 均質な社会は不気味だと思う。みんな、同じような世代であり、そのまま高齢化していく。千里ニュータウン多摩ニュータウンも、そんな光景を示している。同じ光景が、足立区の団地でも展開されているが、格差を考えると、目も当てられない状況ですらある。
 商業都市の場合、人はいくらでも移動することができる。でも、住宅地の場合、どうだろうか。多摩ニュータウンで起きていることというのは、一つの世代によって作られた都市が、その世代の退場とともになくなるということだ。

 東武鉄道が開発したフランサでは、同じ形の家が2軒とない。大規模開発では、世代も収入も似通ってしまう。せめて家ぐらいは違っているものにする。もう一つ、路地があり、家の中がうっかりすると見えてしまう。それはどんな都市になるのだろうか。そのぐらいで、地域社会の再構築ができるものなのだろうか。

 町内会があったとして、それはもはやナショナリズムに結びつかないところに来ている。町内会の大きなテーマの一つは、これから退職する団塊世代を地域の構成員として迎えなくてはいけないことなのだから。アイデンティティではなく、生きるという根源的なところで、つながっていかなくてはならない。
 均質な郊外では、その基盤があるようでないかもしれない。

   足立区から格差を考える

 足立区で育った人間としては、やはりそうだよな、としか思えない。
 東京の東側と西側では、大きな違いがある。格差と言ってしまえばそれまでだが、ことは単純ではない。
 下町は、まあ、ごみごみしたまま、けれども実は再開発されてしまっている、ということになる。今の江戸川区江東区の風景だ。
 下町なんて、実はとっくの昔になくなっている。だからこそ、山田洋次は「男はつらいよ」の舞台を、東京のはずれにある柴又にしなくてはならなかった。柴又は古い下町ではないのである。たまたま、参道沿いで多少栄えていた、という。
 足立区の格差というのは、もっと構造的なものだ。東北地方から上京した人々にとって、東京というのは上野のことだし、だからこそ、東側の新しい住宅地に住む。それが、足立区の住宅地ということになる。多摩ニュータウンでも小田急沿線でもない。
 足立区の北千住と対比させられる六本木だが、実を言うと、日比谷線でつながっている。
 ぼくが高校生のとき、飲みに行く場所というと、まずは北千住であり、やがて御徒町のディスコとなり、OB会になれば、六本木に進出するというわけだ。六本木ヒルズが田舎物の成り上がりの場所だとすれば、それが足立区とつながっていても違和感はない。
 かつて、北千住にはアメイジングスクエアという遊園地があって、とにかく迷路という低コストのアトラクションがいっぱいあるところだったけれども、六本木ヒルズはそうしたアミューズメントの延長なのだろう。

   池袋から個性を考える

 池袋はぼくにとって、通過点であり、西武デパートであった。足立区に住んでいたぼくにとって、練馬区にある父親の実家に行くには、通過しなくてはいけない場所である。デパートといえば西武だったのだけれど、実は叔母さんがかつてここで仕事をしていたというのもある。
 今でこそ、IWGP(って書くと、インターナショナル・レスリング・グランプリだと思いますよね)という、池袋ウエストゲートパークなのだけれど、東武デパートのある西口はとてもマイナーだったし、今でも開発されきっていない。
 ただし、池袋のデパートというと、でかいだけで、魅力がない。というか、でかさという以外の魅力を無くしてしまった。西武美術館もなくなってしまったし。アミューズメントとしては、サンシャイン60があるわけだし。
 池袋のデパートは、没個性の中に存在している。それを救っているのが、サンシャイン60のナンジャタウンだったり、とらのあなだったりする。

 個性ということであれば、神保町だろう。かつては、そこでいろいろな本が買えた。古本屋もあるけれども、巨大な本屋もある。一時、八重洲ブックセンターがその座をうばったし、今では池袋のジュンク堂も新宿南口の紀伊国屋書店もあるけれども、神保町の三省堂もあいかわらず大きい。もっとも、多少こだわりのある本屋として、東京堂書店も好きなのだけれども、まあいいか。

 秋葉原もそうだし、多少は新宿や渋谷もそうなのだろうけれども、都市の個性というのは、商業地としてのポジションなのかもしれない。それがうまく分化され、生き残っていけるところはそうなる、という。
 例えば、電気街のままであれば、秋葉原は生き残れないし、その東にある問屋街も同様である。それは、浅草がそうであり、ターミナル駅ではなくなった上野がそうである。ジャスコが都心にほとんどないおかげで、アメ横がまだあるのかもしれない、とも思う。あるいは、浅草でもっとも重要な場所はWINSなのかもしれない。

   東京からネイションを考える

 そう考えていくと、大都市というのはキメラであり、その全体にアイデンティティを持つというのは難しいのかもしれない、とも思う。けれども、それは実は健全なことでもある。キメラの中で自分のDNAの居場所を確保する。それが、ぼくにとっては金町であるし、ある人にとっては、東京の西側なのだろう。
 都市はネイションを超えて、欲望する。そうして、お台場に広がり、あるいはウォーターフロントに高級マンションができたかと思うと、それは荒川区南千住の再開発までやってくる。
 金町と亀有の再開発も進んでいる。というか、亀有は終わっていて、日本製紙の跡地にアリオができている。駅前にもイトーヨーカドーがあるのに、近くのアリオにもある、という。ここには、シネコンもあるし、それはそれでいいのだけれども。でも、神社とお寺を残したまま開発されたため、アリオの目の前は墓場だったりする。異様な姿といえばその通りだ。
 その隣、三菱製紙の跡地も開発されている。大規模商業施設という話だったが、あんまりなので、今では順天堂大学が誘致されるという方向だ。中川をはさんで、同じものが二つあってもしょうがないだろうという。さらに、駅の南側も再開発が進んでいる。南口の商店街は、金町の中でももっともさびれた、地方都市の駅前のようなシャッター商店街であったのだけれども。
 再開発がうまくいくとは限らない。錦糸町の光景がそうだ。東側にもセゾン文化を持ち込もうとしたが、根付かなかった。
 大崎もまた、成功したとは言いがたい。オフィスビルとしてはどうにか形になっているが、商業施設が根付かないからだ。

 それでも都市は欲望し、人を飲み込もうとするかもしれない。それはやはり、ネイションという枠組みを無効にする力を持っているのではないか、と思う。そこに足を置かない人間だけが、ネイションを気にする。