こちら葛飾区水元公園前通信679

 なんか、おひさしぶりです。
 冬は寒いので、なんか、きらいです。早起きできなくって、こち水もあまり書けていないという。別の原稿を書かなきゃいけない、というのもあるのですが。

 先日、14日は保育園の発表会でした。劇をやったりするわけですが、けっこう楽しませてもらいました。
 息子はハイテションで、落ちつきがなくって、しょうがねえなあ、ってなかんじで、笑わせてもらいました。バッタさんの役なのだけれど、はねまわってばかりという。
 まあぼくも、子供のころは、あんな感じで、まじめに劇をやりますっていうのでもなかったしなあ。

 教育基本法の改正案が参議院で可決成立しました。
 これで、教育に対する行政の関与が強まると思います。基本的な人権や思想信条の自由を求める民主的な人たちによる不当な圧力に屈することなく、愛国心を育てる教育ができるということです。
 やだなあ。

 この2週間もいろいろ本を読んだので、その一部を簡単にメモ。
 浅羽通明の「右翼と左翼」(幻冬舎新書)は、このテーマについて歴史的なところから解説してくれる。けれども、結局のところ、右翼と左翼というイメージこそ残っているものの、あまり意味をなさなくなっている現在、そのイメージの源泉をたどり、その言葉をどこか遠くにやってしまうことでしか、対立点を明確にできないわけで、その意味では、第6章と第7章、すなわち戦後の右翼と左翼、そして現在の状況についてだけを読めばいいという本なのかもしれないと思うのでした。
 ぼくは思想的に、高橋哲哉森達也辺見庸といったところに共感を感じてしまうけれど、そのポジションというのがわかったというのは、まあ、そうかな、というところです。それはつまり、哲学的新左翼と浅羽が呼んでいるものなんですけれど。

 飯田泰之の「ダメな議論」(ちくま新書)、そうですね、ぼくもダメな議論をよくしているみたいなので、反省しなきゃいけないですね。
 ダメな議論のチェックポイントは便利です。
1) 単純なデータ観察で否定されないか?
 少年犯罪は増えているようで減っている。けれど、そんなイメージはないよね。それで、最近は物騒だと。でも、昔から物騒だったんだけれども。
2) 定義の誤解、失敗はないか?
 そりゃまあ、ちゃんと定義しないと、議論にならないですね。
3) 無内容または反証不可能な言説
 教育を充実させて、「生きる力」を身につけさせよう、というとき、「生きる力」の定義ができていないし、そりゃまあ、定義はともかく、言ってることは正しいようだけれども、でもそれは、だからどうしたっていうことですね。
4) 比較と例え話に支えられた主張
 例え話を聞くと、そうかなって思うこともあるけれど、実は関係なかったりしません?
5) 難解な理論の不安定な結論
 相対性理論により、今回の経済政策は正しい、とか言われても、理論がよくわかんないし、だからどうしたって。いや、これは極端だな。でもまあ、ぼくもときどき、わけがわかっていないのに、ドゥルーズガタリの「アンチ・オイディプス」なんかによると、などと言っているわけで、いかんですね。(その「アンチ・オイディプス」、いつのまにか河出文庫になっているのですね)

 梶井厚志の「故事成語でわかる 経済学のキーワード」(中公新書)は、経済学よりも、故事成語が勉強になりました。こういうの、ぼくはすごく弱いんです。世界史は、ちゃんと授業は受けたんですよ。4単位も。未履修じゃないんです。いや、日本史だって4単位です。でも、歴史はにがてなんです。

 米谷匡史の「アジア/日本」(岩波書店)は、いろいろ勉強になりました。明治以降、日本人がアジアをどう考えていたのか、ということですね。何となく、イメージとして、日本は帝国主義の波に乗って、自分たちも植民地をつくろうとして、東アジア、東南アジアに進出、大東亜共栄圏をつくろうとした、そんなイメージがあるのだけれども。
 でも、そんな言論に統制されてしまったのは、本当に1940年以降の5年間程度、わずかな期間でしかなく、その前には、批判されるべき点はあるけれども、例えば、中国と日本の間にはさまれた朝鮮をどのように発展させていくか、そのために日本にキャッチアップさせていく、そんなことが考えられていたりもする。まあ、その中途半端さが、現在いたって、日本は朝鮮を解放しようとしていた、とか、そんな話にされてしまうのだけれども。それは、日本が東南アジアの植民地を解放しようとした、という議論も同じことなんだけれども。そして、皮肉にも、日本は植民地といっても、単純な支配ではなく、とりあえずそこに政府をつくり、形は独立したようにする、例えば満州国のように、そうした方法論が、先の話につながる。そして、敗戦とそれに続く経済成長によって、経済的に支配関係をつくっていくことが実現する。
 というわけなんだけれども。それにしても、日本はなお、脱亜入欧という路線から入米というところが変わったくらいですね。

 中沢新一の「森のバロック」(講談社学術文庫)は、南方熊楠の思想について書かれたもの。まだ若い中沢の著作。南方は留学し、世界をまわり、思想の基盤を築いた後、熊野において人々と交わりながら、民族学の研究をしながら、そして粘菌(変形菌)の研究をしながら、マンダラのような世界像を描きながら、構造主義のような思想を深めていったという。それは、レヴィ=ストロースに先駆けるものだったという。そして、南方の思想は受け継がれることはなく、中沢によって再発見される。とまあ、そういうわけ。
 何で粘菌なのか、というのもあるけれども、これはすごく奇妙な生物の一群。アメーバのようにエサを食べて成長したあと、カビのように胞子をつくって増える。アメーバはそれぞれ一個の個体のようにふるまいつつも、増えるときはそれらがあつまって、変形体という巨大な細胞をつくり、一つの個体になってしまう。奇妙な生物は、実はそうではない生物によって見誤まらされていた生命の本質を明確にしてくれるものである。そう思う。
 それは、神話というものがやはり、アメーバのように離散し、存在しながら、全体として機能していく、そういうマンダラ的世界観なのかもしれない、とぼくはとらえました。そういう世界観の中で、「アジア/日本」という関係を再構築していくことは、それはそれで有効なのではないか、ということも考えたのでした。

 ジャン・エシュノーズとジャン・フィリップ・トゥーサンの新刊が出たのですけれど、これはまた機会をあらためて。