こちら葛飾区水元公園前通信676

 先週の土曜日は雨だったけれど、無事に息子の七五三をやって、まあ、ひとくぎりっていうところ。たまたま、かみさんの両親が来ていたっていうのもあってのことである。息子はスーツなのだけれど、バザーで買ったもの。たぶん、この日くらいしか着ないだろうから。前の持ち主も同様なんだろうな。

 かみさんの両親が来ていたのは、法事のためなのだけれど、そういうことで、日曜日はぼくと子供たちで留守番。
 風が強いけれど、天気はいいので、家にいるのはつまらないので、松戸市立博物館へ。東急ストアの広報誌に掲載されていたので、行ってみたくなった。
 何が見たかったかというと、昭和30年代を再現した団地。博物館の内部に常盤平団地が再現されている。団地内の地図に加え、階段やドア、狭い室内といったところ。白黒テレビではバヤリスオレンジのコマーシャル(チンパンジーが出てくるやつ)が流れ、風呂場には木でできた浴槽がある。ダイヤル式の電話や、昔の掃除機、電気釜もある。本当に、ぼくが幼児の頃の風景なのである。
 息子は白黒テレビの画面を見て、「ウルトラQをやっている」って言っていた。確かに40年前というのは、同じ時代だな。40年間っていうのは、けっこう軽いものではないな。
 博物館の展示はまず、松戸の歴史を追うということになっていて、縄文時代の松戸からはじまるのだけれど、昭和30年代まで一気にという感じである。
 娘は展示よりも最初のプレイゾーンで機織の体験をしたことを、喜んでいたな。そういうのが、けっこう大切だったりする。

 「不都合な真実」という映画の反応には、ちょっと感じるところがある(何だか、いつも「不機嫌な果実」と間違えたくなってしまうということはさておき)。連日、マスコミ向けの試写会は満員だという。それは悪いことではない。マスコミはかなり好意的に書いているし、それは当然だと思う。けれども。
 ゴアのスライドショーを見ていて、ぼくにしてみればだいたいは知っていること。というか、ゴアに言われるまでもなく、地球温暖化は深刻な問題なのだから。
 けれども、というのはこういうことだ。これだけ深刻な問題でありながら、ゴアほども説得力を持って地球温暖化問題の深刻さを訴えることができたメディアって、どれだけあるのだろうか、ということ。その点について、ジャーナリストは恥じ入ってもおかしくはない。ジャーナリストがたばになっても、ゴア一人におよばないということなのだから。
 もちろん、ぼく自身も当事者だった時期があるわけで、その点については同じなのだけれども。
 現在、気候変動枠組み条約締約国会議/京都議定書締約国会議がナイロビで開催されている。

 「六ヶ所村ラプソディ」という鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリーも面白かった。
 六ヶ所村原子力発電所の使用済み燃料の再処理工場なんかがある。むつ小川原開発といいながら、全国総合計画の結果、石油基地と原子力施設しか来なかったところだ。
 戦後、引き上げた農民が開拓した土地は買収され、現在のようになっている。地方の弱い経済に対して、お金のかかる設備が持ちこまれるというあまりに典型的な事例。それを100%否定することなんてできない。
 そんなことを目の当たりにする映画なのであった。
 ささやかな抵抗として、チューリップを栽培したり、無農薬のお米を栽培したり。けれども、再処理工場の操業がはじまれば、放射能がばらまかれてしまう。でもそこで生きていかなきゃいけない。ビジネスチャンスと考えるクリーニング屋もいるし、畜産から建設会社に変わった社長もいる。
 ことは単純ではない。六ヶ所村の再処理工場を止めるということは、「食」の安全性という見方だって必要だし、疲弊した地方経済に対するコミットだって必要なのだろう。
 無農薬米を栽培している女性が、毎年、お米を直送しているのだけれど、次は放射能がかかったお米になります、と正直に手紙で報告した結果、ほとんどのお客は「買わない」という返事。それは、当然といえば当然だし、少なくともぼくだって子供たちに食べさせることはできないって思う。そこでは、六ヶ所の再処理工場が、何か根源的なものを破壊している、そんな感触があった。それでも女性は、その年もいとおしそうに、田植えをし、草取りをするのである。