こちら葛飾区水元公園前通信671

 このところ、急に寒くなったので、こたつを出してしまった。一部では「貧しい暖房器具」の象徴のように言われているけれど、子供のころからこたつにもぐるのは好きだったし、そこでぬくぬくと眠ってしまうこともしばしば。電磁波が怖いという話もあるのだけれどもね。

 最近、息子は英語に興味を持っていて、「こんにちははHelloだよね」とか、「Nice to meet you」とか言っている。
 そんなんで、「英語でいただきますは何ていうの?」ときいてきた。「えーと、それはだな、何だっけ?」「じゃあ、ごちそうさまは?」「忘れちゃったよ」というわけで困ってしまったのであった。何ていうんだっけ?

 池田満寿夫の「創造と模倣」(中公新書)を読んだ。1969年の本で、図書館のリサイクルコーナーで拾ってきたもの。35歳の池田が芸術について論じている。
 当時の池田の問題意識というものがわかって、ちょっとおもしろい。池田は当時は日本で暮らしていたわけだけれども、その前はニューヨークを拠点にしていた。そこで、では東京とニューヨークではどちらが情報を得やすいかというと、当時ですら東京。ニューヨークは情報を発信する一方なので、かえって受け取りにくい。
 そうした状況の中で、池田は、なぜ日本人なのに日本画や浮世絵の影響を受けないのかという質問を、さんざんニューヨークで受けてきた。そんなの、あたりまえじゃん、ということなのだけれども。むしろ、そのずっと前に印象派は浮世絵の影響を受けたし、芸術はそれなりにグローバル化しているという。
 まあ、そんな話をはさみながら、池田の焦点は、創造と模倣の境界線、あるいは芸術と非芸術の境界線に向かっていく。創造といっても、実はさまざまな影響の下にある。模倣は模倣で、価値がないわけではなく、そこから学ぶことも多い。
 とりわけ、芸術を受け取る側にとって、それがどれほどの意味があるのか。池田自身、「モナ・リザ」を見たときに、画集と同じだと思ったという。絵画の場合、本物を見なければ理解できないということはまったくなく、池田自身、どんなに優れた作品でも10分以上見ていることはできないし、そうであれば画集を通じて理解することだって少なくない。
 制作する側にしても、版画であれば大量生産がきくけれど、これに署名をすれば、いずれも「ホンモノ」の作品ということになる。多少、版がずれていたって。
 そして、その境界に横たわるのは、デュシャンの「泉」。便器にサインをしただけという、とてもすばらしいレディ・メイドの作品なのだけれど。池田はデュシャンの回顧展を見たときに退屈でしかたがなかったという。それでもなお、その退屈な作品は存在し、池田をゆさぶる。それは実物の作品ではなく、その作品が存在するということに対してだし、そうしたとき、「ホンモノ」を見たところであまりインパクトがあるわけではない。
 じゃあ、何なのか? というところが、1969年の池田の状況なのであった。
 40年近く立った現在、状況はもっと複雑になっている。CGでアートを作成する場合、それはいくらでも複製可能だ。そして、いくら複製しようとも、どれも本物なのである。特定のモニタやプリンターで出力しなくてはいけない、ということはあまりない。
 版画の場合、200枚なら200枚、決めた枚数だけ作成したら、版を壊してしまう。そうすれば、200枚以上はできないから、市場を守ることができる。じゃあ、CGはどうなのかというと、どうなんだろう。
 池田がもし生きていて、CGに取り組んでいたら、どんなふうに思うのかな。でもまあ、池田自身、後に「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞したのは誰でも知っていることだし、それはやはり、複製可能な芸術として存在している。

 山崎ナオコーラの「人のセックスを笑うな」(河出文庫)は、なんかそれなりにせつない話だな。20歳の男子学生と39歳の女性教師なんだけれども。今のぼくの目から見れば、39歳の女性は魅力的に見えるけれども、20歳のときのぼくには、そんなふうに見える女性でいなかったよなあ、などとも思ってしまった。20代後半の女性でもおばさんに見えたしなあ。
 などということはさておいて、主人公は男子学生。出会ったときに39歳だったユリは彼の前から姿を消していた。その過去をふりかえってみるというストーリー。セックスはしていたけれど、それは過剰なものとして描かれていない。むしろ、不器用にやってきたという。その不器用さが愛されていたのだろうか。微妙にユリのダンナにも受け入れてもらったりもする。でも、不器用さを愛されていても、それは続かないのかもしれないな。だからせつない。

 田尾宏文の「ニートという生き方」(オンブック)には、ちょっと興味があって読んだ。
 これは前に紹介した高橋朗の「幸福って何?」とは対照的な本だなあって思った。
 ものごとをきちんと考え、仕事に取り組んでいく。仕事の目的は何か、そこをとらえることができれば、がんばれる。そうした中でサラリーマンは幸福をつかんでいく。およそそういう話が「幸福って何?」だったとすれば、そもそも仕事ってそんなに楽しいものなの? どんな意味があるの? という気持ちを持ってしまうと、ニートになってしまうのではないか。ぼくなんかむしろ、そうした気持ちの方がわからないでもない。社員に幸福を提供できる仕事を持った企業って、どのくらいあるのだろうか、とも思う。
 でもまあ、そんなことを言ってもはじまらないし、仕事をしていけば、それなりに自己実現も見えてくるようなものでもあるわけだけれども。でも、そこの部分がうまく提供できないと、「自己実現」という夢と「仕事」というのが一致するイメージがなく、ひきこもってしまう。だから、ひきこもりを外に引き出し、まがりなりにも作業・仕事をさせて、社会に対してコミットメントできる能力をつけて送り出すというのが、NPO法人ニュースタートの事業ということになる。
 つまり、本書はその事業について書いた本ということになる。事業はユニークなもので、くわしく述べることは難しいのだけれど、まずは「レンタルお姉さん」「レンタルお兄さん」がひきこもりを外に連れ出す。そして寮で共同生活をはじめながら、今度は何かの仕事につく。IT事業部での仕事はもちろん、飲食店や福祉コンビニなどいろいろ。そこでスキルを身につけて、離れていく。事業スタイルが確立したら、解散し、全国に新たにいくつものNPO法人ができる、そういうプログラムにもなっているという。
 ひきこもりだって周囲とコミュニケーションができ、必要とされればうれしいし、そうした中で人の役に立つ、という形で何らかの自己実現に向かえばいいのではないか。まずは生きていくための入口を提供すること。それは「幸せって何?」と考えるはるか手前にあるけれど、同時に悩めるサラリーマンとは異なった入口にいるということでもある。
 ぼくは幸福なサラリーマンよりもニートの方が、感情的にわかる気がする。だから、その感情に答えられるような社会になっていかなきゃ、とも思う。

 森奈津子の「アカツメクサシロツメクサ」(光文社文庫)も出たので読んだ。あまりエロはないです。でも、森のエロが持っているナルシスティックな雰囲気は、かえってよく出ているのではないか、などとも思うのであった。