こちら葛飾区水元公園前通信659

 8月15日、朝、テレビをつけると、小泉首相がこれから靖国神社を参拝するところでした。ほとんど予想通りというか、まあ、しょうがないなあというか。テレビがここまで中継してくれるというのは面白かったですけどね。小泉にとっても、今回の8月15日というのは、キャリアにおいて彼個人の内面において、すごく重要だったと思うのです。まさにそのことが、彼内部での首相としての評価を決定付けるようなものだという。

 昔の画像と比較するとすごく感じるのですけれど、小泉はこの5年間でものすごく年を取った、言い方を変えるなら老けた、あるいは疲れたような気がします。それは、小泉自身、首相であることに疲れた、と同時に、自分が描いていた首相になれなかったのではないか、そんな気がするのです。だからこそ、任期の途中で投げ出してしまったということにもなるのですが。

 小泉はかつて、YKKの一角として、まさに次のリーダーの世代として、それなりに元気でした。あまりに変人すぎて、誰もが「首相になるのは加藤か山崎だろう」と思っていましたけれども。その変人さというのは、メディアに露出し、かなり大胆な発言をしていたということなのですが。
 例えば、ニュースステーションでは、「首相になれば何でもできる」と発言していました。それまでのほとんどの首相は、利益調整型で、神輿のようにかつがれたり引きずり降ろされたりといったものでしたから、そこまで発言してしまうこと自体、新鮮ではありました。
 しかし、この変人に、意外にも首相がまわってきてしまうわけですから、世の中わからないものです。直前のサメ脳森首相の不人気や、加藤の乱の失敗、山崎の××など、周囲が勝手に沈んでいく中での首相就任だったわけです。

 といっても、小泉にはさほど立派な政策があるわけではなかったのです。唯一、郵政民営化だけといってもいいと思います。むしろ、経済政策を竹中平蔵におんぶにだっこといったのが実情ではないでしょうか。
 「自民党をぶっ壊す」と言っていたわけですが、それは既得権益政治への決別でした。神奈川県から選出された国会議員にとって、都市のお金が地方に流れることは、非効率的なことでした。90年代を通じて、国家の財政が悪化していく中で、ばらまき政治を続けることはできない、という。竹中もまた同じ考えを持っており、財政緊縮によって政府のバランスシートを改善し、日本経済の破綻を防ごうという発想を持った経済学者です。都市に効率的に投資をしていけば、日本経済全体は浮揚していくということです。
 これによってぶっ壊されたのは、経世会でした。田中派の流れをくむ、地方へのばらまき政治を頼りにしていた政治家集団の勢力が弱くなったということです。

 でも、実際に壊したのは、ばらまき政治の終焉ではなく、メディアの活用による、高い小泉首相の支持率によるものでした。首相に対抗できる人材もなく、従うしかない状況では、政治家は力の強いものにつきます。森派がいつのまにか、最大派閥になってしまいました。
 一方、ばらまき政治はどうなったかというと、ある意味では温存されています。道路公団が名前を変えてなお、今後も高速道路を造る状況は変わっていません。
 さらに大きな問題を残したのが、郵政民営化です。そこで問われていたのは、例えば財政投融資といった財布をなくし、非効率で政府のコントロールの効かない支出をなくそうというものでした。というのも、こうした利権がらみのお金が非効率に使われることで、郵便貯金は返済できなくなっていくからです。
 ですが、郵政民営化で起きたことは、全国に多くの拠点を持ち、郵便だけではなく簡易保険や貯蓄といった金融についてもユニバーサルサービスを提供してきた事業体が解体されるということだけでした。民営化されて誕生する金融機関は、やはり非効率な投資を続けることでしょう。というのも、それがないと、例えば道路が造れないからなのです。

 小泉自身、おそらく、少ない脳みそで考えていた郵政民営化は、やはり違うものだったはずです。利権に左右される、効率的な投資ができる民間の金融機関というものだったのではないでしょうか。
 ところが、ほとんど唯一の小泉オリジナルの政策課題ですら、実現に5年もかかってしまい、しかも小泉自身が考えていたものとは違う内容だったわけです。小泉自身、支持者から見ると強いリーダーシップを発揮していたように見えるのかもしれませんが、内実は調整型の政治を強いられ、それゆえにとても疲れていったのではないか、それが小泉がこの5年間に急速に老けた理由なのではないか、と見ています。
 何より、小泉は官僚と対峙するときに、ほとんどの場合、明確なビジョンがなく、官僚の権限を解体することができなかったわけです。経世会を壊しても、官僚の利権を壊すことはできなかったわけです。

 なお、ぼく自身は郵政民営化をすべきではなかったと思っています。財政投融資といったしくみそのものは、民営化しなくても改善することはできたし、むしろ、民営ではないがゆえに、国民全体に金融のユニバーサルサービスを提供してきた面は大きいと思うのです。

 経済政策こそ、竹中にまかせとはいえ、まがりなりにもあったわけですが、外交政策については、まったくのからっぽでした。元から小泉に何らかのビジョンがあるわけではなく、アメリカにおんぶにだっこということでした。ブッシュについていけばいいという発想は、ブッシュのペットと言うに値するものでした。田中真紀子外務大臣にしたことが大きな間違いだったとは思いません。田中もまた、外務官僚と対峙することになったわけですが、田中自身が外務省の中でスポイルされてしまった、そのことを小泉自身がフォローできなかったということになります。就任当初から、アーミテージとの会談をキャンセルするなどの失策はあったにせよ、です。続く、環境大臣から横滑りした川口順子は、気候変動枠組条約における国際交渉での彼女の活躍が高く評価されたという点があるのでしょうが、それ以上のものではありませんでした。

 小泉は長い在任期間の割には、あまり成果がなかった、ということを小泉自身感じているのではないでしょうか。まさに、官僚にまるめこまれてきた5年間という自覚があるのだと思います。
 そうした中で、首相就任時の公約として、靖国参拝、それも終戦記念日の8月15日の参拝というものがあったわけです。それは、退任を目前に控え、最後の首相としての成果として、自分自身を納得させるために、今年はぜひとも行う必要があったのではないか、というのがぼくの見方です。
 気が付けば、小泉自身も担ぎ上げられ、小泉劇場の中で主役を演じさせられ続けてきました。まさにからっぽだったからこそ、演じられたのかもしれません。そして、演じることに疲れたとき、退任を表明し、からっぽのままアメリカでプレスリーのまねをしておどけてみたりする、そうすることでからっぽの自分を取り戻す、そういうことなのかもしれません。
 8月15日、小泉はからっぽゆえに、立つ鳥後を濁すことができたわけです。

 小泉政権は中味のない小泉に代表されるように見えるかもしれませんが、実は小泉−竹中政権ということでとらえた方が正しいのではないでしょうか。
 象徴的なことは、今年の通常国会が閉会する時点で、教育基本法の改悪や共謀罪が先送りになったことです。このことそのものは、悪いことではなく、首の皮がつながったようなものなのですが、その背後で、医療制度改革がなされました。これもまた、政府のバランスシートを改善しようという経済政策が優先されたということになります。
 なお、繰り返しますが、竹中の経済政策はわからないでもないけれど、支持できないものです。というのも、経済全体を効率的に浮揚させるために、結果として格差が広がる聖作だからです。地方と中央の格差が広がっていることは、わかりやすいと思います。
 言い方を変えるならば、小泉−竹中政権は、こうした経済政策こそが柱であり、それによる格差の広がりを覆い隠すものとして、高揚するナショナリズムがあったのではないか、と見ています。まさに、ヨーロッパで不景気時に、低賃金の職場を移民に奪われた低所得の若年層を中心にナショナリズムが高揚し、右派政権が成立していった90年代後半という時代に重なります。
 確かに憲法改正が政治日程にのぼってきた現状において、このことそのものも大きな問題ではあります。しかし、そのことと格差社会をつくる経済政策とは、裏表だということなのです。そして、竹中的には、ナショナリズム格差社会の安全弁ということになるわけです。

 ということで、次は安部晋三ですか。ますますからっぽの首相ですね。
 格差社会が進むことで、大手企業、都市部の経済が浮揚し、景気はずうっと拡大局面にあります。ぼくにはまるで実感がないんですけれども、そういうことです。財界的には、いいのでしょうけれど、それにしてもさすがに、外交政策はまずいのではないか、ということになってきています。
 経済的な結びつきは、アメリカよりも中国の方が重要になってきているし、アメリカ自身も、ブッシュが親日だったのは、ほとんど例外的なことで、現実的に考えればアメリカだって日本より中国の方が大事なわけです。事実、クリントン政権はそうでしたし、ブッシュ政権もさすがに2期目は中国をより重視してきています。
 こうした状況で、安部はさすがにまずいのではないか、ということです。その安部に支持が集まるというのは、どう考えても、脳みそが腐っているとしか思えないですよね。それとも、中味がないほど担ぎやすいということなのでしょうか。
 思うのですが、これは来年の参議院選挙までということなのではないでしょうか。負ければ安部退陣ですし、勝てば勝ったでまあいいや、というような。小泉−竹中の地方切り捨て路線のおかげで、参議院選挙の地方選挙区は自民党にとって厳しいという見方があります。だったら、無理をしないで、顔がいい奴にやらせておこうというくらいなのかもしれません。

 今回の総裁選挙、靖国神社が争点の一つです。
 そんな細かいことが争点になっている、ようですけど、本質的には、東アジア外交を歴史を踏まえてやっていけるのかどうか、ということです。
 まず、靖国神社が宗教法人であり、憲法が信教の自由を認めている以上、個人としての靖国神社の参拝を禁止することはできません。ただし、公人としては、問題が残ります。
 仮に、公人としての参拝そのものが違法性がないとしても、公人としてその行為がおよぼす結果については、責任が伴います。まさに、小泉の靖国参拝で問われるべきは、このことです。
 なぜ、靖国神社参拝が問題かといえば、A級戦犯を合祀しているからではなく、戦争の推進に協力してきた機関が、戦後、民間の宗教法人となったときに、その思想そのものを何ら変えることなく存続している、参拝はそうした思想そのものを認えていることに他ならないからです。
 これは分祀すればいいとかいう問題ではありません。
 また、宗教法人ではなく国の追悼施設にしてしまうことも、無理でしょう。第1に、宗教法人に対し、それを強要することはできないこと。また、国の施設とするときに、宗教性を除去することは困難であること。施設そのものが持っている思想を変えることが難しいこと。
 靖国神社は宗教法人として、ほうっておくというのが一番いいのではないでしょうか。
 何より重要なことは、せいぜい20世紀前半の東アジアにおける日本の歴史の評価をきちんとするということだと思います。

 とまあ、そんなことを、森達也の「世界が思考停止する前に」(角川文庫)や、大塚英志の「キャラクター小説の作り方」(角川文庫)を読みながら、思ったのでした。

 本屋で、IWGPって表紙に書かれた本があって、「プロレスの本じゃないか」って思ったら、マンガ化された「池袋ウエストゲートパーク」でした。
 なあんだ。