こちら葛飾区水元公園前通信818

tenshinokuma2014-06-27

 こんにちは、です。
 みなさま、お元気でしょうか。
 今回は、宣伝はなしです。

 なんだか、毎日が雨ですね。洗濯ものがたまるので、困ります。
 エルニーニョの影響、だとか。

 ワールドカップも、盛り上がっているのでしょうか。日本は敗退してしまいましたが。サッカーがとくべつ好きなわけではないのですが、残念といえば残念です。でも、連続して出場しているだけでも、すごいことだと思います。
 ただ、そういうこととは別に、こうした国際大会では、いろいろな国があって、そこに人がいるっていうことを、あらためて認識します。それは、お金まみれのワールドカップ(オリンピックも同じですが)でも、悪いことばかりじゃないというところでしょうか。
 参加国の中でも、アフリカの国はだいたい問題を抱えています。日本に買ったコートジボアールドログバは、ワールドカップ出場にあたって、内戦停止をよびかけたことで知られています。一方、ナイジェリアはそれどころではない、女子高生誘拐事件が進行中だったりします。あるいは、ボスニアヘルツェゴビナが初出場なのですが、ユーゴスラビア崩壊後に民族対立による悲惨な内戦があったことは、忘れられていないと思います。
 そうした中にあって、日本は戦争の準備をしている、ということで覚えられるのでしょうか。

 あいかわらず、世の中というか政治はばたばたと社会を崩壊させる方向で、気が重くなりますよね。
 集団的自衛権がどうの、とか言われたところで、そうした姿勢が逆にリスクを高めているんじゃないか、とかさ。
 安全保障っていうことだったら、PM2.5が先じゃないか、とかね。尖閣諸島にどこかの国が上陸しても、誰も死なないけれど、大気汚染で死ぬことはあるんだから。
 年収1千万以上は残業代カット、ですか。どうでもいいけど、この10数年の間に、平均賃金が10%以上も下がっているのに、なお、生産性が低いんですかね。賃金カットが成長戦略っていうのも、冷静になって考えると、すごい話ですよね。労働者だけ成長しない戦略、ですか。
 法人税減税もね。結局のところ、政府自民党がやってきたことって、衰退産業を生き残らせる政策だったんじゃないですか。競争力を確保するために、人件費を削減し、さらに減税、ですからね。
 成長戦略といっても、成長しない企業を退場させない戦略だから、どうなんでしょう。

 もっとも、アベノミクスを批判する人も、ちょっと芸がないよな、と、不安になります。
 根井雅弘の「経済学再入門」(講談社学術文庫)や、石弘光の「国家と財政」(東京経済新報社)などの経済書を読みながら、やっぱり思うんです。
 景気が悪いときに、お金を印刷して需要をつくりだす、というのはその場面においてはいいのだけれども、石の指摘は、景気が回復したときに、お金を回収するようなモラルがはたらかないっていうことです。そりゃ、借金は減らないですよね。それで、国の赤字は拡大してしまうわけですが。
 とはいえ、短期的には需要を拡大させないといけないよな、というのは、クルーグマンの主張はそこは正しいかな、とは思います。けれども、その先、元に戻すモラルをどうするんだろうって。財政学者の石は、その点を指摘します。それもまた、その通りなのですが。

 アベノミクスのおかげじゃなしに、震災で需要は拡大したし、原発が止まって、貿易赤字になって、円安になったし、景気が回復する要因は元々ありました。震災があって良かったとは、少しも思わないけれども、結果としてお金はまわるようになったわけです。
 ただ、アベノミクスの経済政策というのは、円安と通貨供給を認めたこと、ただそれだけです。
 でもね、その先はダメダメですよね。公共事業が増えても、持続可能な投資になっていない、ということだから。
 不要な防潮堤をつくり、2020年以降はゴミになるオリンピック施設をつくる、とか。
 最近、ビジネスマンの本音みたいな話をきくと、安倍政権への期待よりも不安の方が大きいんです。東アジアで商売できるのかどうか、とか。でも、なぜか、声には出さない。遠慮することないのにな。
 そろそろ、安倍政権も崩壊するんじゃないか、臨時国会で辞職するのではないか、と見ています。
 あり得ないですか?

 経済書では、中山智香子の「経済ジェノサイド」(平凡社新書)も読みました。フリードマンを批判した本、といえばわかりやすいですね。
 ジェノサイドはどういうものか、チリのピノチェトによるクーデターから始まります。
 このクーデター、ガルシア=マルケスの「戒厳令下チリ潜入記」とその元になったドキュメンタリー映画で出てきました。それで覚えています。
 このクーデターは、裏でCIAが操作していたとか、そんな話があります。いずれにせよ、クーデター後、フリードマンの経済理論によって経済は復活しますが、同時に貧富の差が拡大します。クーデターで死んだ人もいるけれども、これによって貧困層に落とされた人もたくさんいるということです。
 皮肉なことに、安くておいしいチリワインが飲めるのも、貧困層の安価な労働力のおかげだそうです。
 こんな経済政策が、もてはやされ、先進国でも途上国でも導入され、フリードマンノーベル経済学賞を受賞。さすがに、これには多くの経済学者が批判はしました。
 意外なところでは、経済学者としてのドラッカーもまた、フリードマンを批判していました。
 ざっくりと言えば、フリードマンの経済理論は、市場の機能を過剰に信用し、企業の活動を活性化させるというもの。もっとも、フリードマン自身、経済学者というより、経済屋として、あちこちでお金を稼ぐわけですが、皮肉にもそれ以上に金融工学のエンジニアがお金を稼いでいくということになります。
 フリードマンの理論では、市場の不完全性というのはあまりかえりみられません。結果として、人が幸福にならない経済、ジェノサイドが起こる経済になるわけですが。
 読んでいると、今の日本の経済政策がそのままだな、と思います。フリードマンの位置に、竹中平蔵がいるといえば、わかりやすいでしょうか。もっとも、竹中にはフリードマンほどの理論も哲学もなさそうですが。

 押見修三の「惡の華」(講談社)が11巻で完結しました。これは、おすすめです。ぜひ、読んでください、と言っておきます。
 7巻までの中学校編は、喜国雅彦の「月光の囁き」を思わせる、フェティシズムに落ち込んでいく悪を描き、破滅につながっていく、そんな内容でした。主人公を落とし込む究極の残念女子、仲村佐和の魅力に、読者もまたどんどん落ち込んでいくと思います。この、中学編の結末だけでも、もう十分に傑作なんです。
ところが、仲村さんが退場してしまった高校編は、ちょっと抜け殻のようになっていて。でも、11巻で仲村さんは再登場します。
 この仲村さんの姿には、ちょっと泣けます。アジフライが食べたくなります。
 ぼくたちは、欠落や黒歴史を抱えながら、それでも生きて行かなきゃいけないのでしょう。

 金田一蓮十郎の「ラララ」(スクウェア・エニックス)も2巻まで出ましたが、「ニコイチ」以来の傑作です。こちらもぜひ。
 主人公は会社をリストラされたところで、飲み屋で酔っぱらったところで、女性から就職の打診をされ、引き受けます。この仕事というのが、専業主夫
 女性は男性に何の興味もない外科医。結婚の話をされるのがイヤで、バツイチになるべく、ちょうどよさそうな主人公と結婚したということ。
 でも主人公にとって、年上だけれども美人でナイスバディの女性との結婚は、そう簡単になしにできないもの。しかも、彼女は裸族なので、自宅では生まれたままの姿という。それでセックスに興味がないと言われても、身体に悪いです。
 「ラララ」で描かれているのは、セックスというのを一回ナシにして、まずは人間として一緒に居心地良く暮らすということはどういうことなのか、そういうことなのだと思います。
 金田一は「ハレグゥ」以降、ジェンダーを無効化しまくっているし、とりわけ「ニコイチ」は女装男子のラブコメなどではなく、ジェンダーを無効化した先でのラブコメということになります。ひょっとしたら、金田一は、男性というジェンダーそのものが社会に不要なものであり、なくなってもいいものだと考えているのかもしれません。実際に、ぼくもまた、そう思います。
 その金田一の新作は、ドラクエ10で知り合った男女の話だとか。

 チャールズ・ユウの「SF的な宇宙で安全に暮らす、っていうこと」(ハヤカワSFシリーズ)も、おもしろかったです。こういうの、趣味です。
 えーと、設定としては、時間SFであり、家族小説。ループする時間から脱出、みたいな話だとすると、東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」を思い浮かべてしまうかも。でも、あっちよりもずっとおもしろいですから。
 SF的な宇宙っていうのは、タイムマシンのある宇宙ってなところでしょうか。そこで、母親はループの中に入ってしまい、父親はどこかの時間に失踪する。そんな中、主人公はタイムマシンのある時間で、うっかり未来の自分と出会ってしまい、しかも撃ち殺してしまう。未来の自分は主人公に「SF的な宇宙で安全に暮らす、っていうこと」という本を渡し、これを読めばわかるという言葉を残す。
 ということで、主人公がループに入っていき、そこから脱出しようとする。その過程で、父親のこと、母親のこと、そんなことが語られる。それから、3Dのホログラフィで登場する人工知能、けれども彼らの人格が主人公の心を救っていく。そんな姿も描かれる。
 時にセンチメンタルな文章で書かれ、あるいは機械的なセンテンスが続く。何がなんだか、といったところもあるけれども、時間が混乱することで、人生における特異点みたいなものも見ることができる。そんな小説です。

 小学校で掲額式も無事に終わりました。これからは、校長室にぼくの写真が飾られているという。悪夢ですね。校長室、行きたくないです。
 まあ、しかたないんですけど。
 そんなこんなですが、そろそろまた釣りに行きたいなって思っているところです。
 ではまた。