こちら葛飾区水元公園前通信799

tenshinokuma2013-02-26

 どうもです。
 すでに、「トーキングヘッズ叢書No.53」が店頭に並んでいるかかと思います。サブタイトルは「理想郷と地獄の空想学」というより、テーマは涅槃、でしょうか。そんなわけで、私めは、植芝理一の「ディスコミュニケーション」の涅槃編を題材にさせていただきました。
 実は、書くにあたって、中沢新一細野晴臣の「観光」(ちくま文庫)を読もうと思ったのですが、本棚のどこかに隠れていて。原稿を書きあげてから出てきました。途中までは読んでいたのだけど。

 このところ、桐谷美玲主演で「涼宮ハルヒの憂鬱」を実写化しないかな、とか、そんなことばかり考えています(ウソ)。成宮寛貴主演の「銀魂」もいいかもしれません。

 前回は、すごく暗い気分で書いていたのですが、別に、明るくなったわけじゃありません。ただ、ほんとうに悪い方向にいろいろなものが進んでいて、それは少しも変わらないというところです。
 生活保護子ども手当や教育の問題も、共通することがあります。それは、これによって利益を受ける層が、直接的には少ないということです。
 間接的には、影響は大きいのですが、直接の当事者が少ないし、その声が反映されないという。そのため、調査をすると、直接関係しない人が多数となり、その中で多数意見が形成されてしまう。
 よく、いろいろなことを、多数決で決める、ということがあるわけですが、実は、多数が支持していることが正しいということは、必ずしもそうではないということは、確認しなきゃいけないとも思います。これは、感覚としても、大事なことだと思います。

 いまさらですが、森美術館で開催中の、「会田誠展:天才でごめんなさい」を見てきました。おもしろかったです。日本でもっとも注目されている、現代美術家の、初めての回顧展、ということでいいでしょうか。
 でも、美術とは何か。正直なところ、よくわかりません。わかればいいのか、というものではなく、わからなくてもいい、とポジティブに考えているのですが、そういうことです。「戦争画Returns」シリーズのように、社会的なメッセージ性の強い作品群があって、でもだからといって、それだけで評価されるものではない。美術でしかできないこと、というのは、それが美術作品として、さまざまな引用を含みながら成立しているから、とでもいうのかもしれません。藤田嗣治戦争画に対する、オマージュ、とか。というよりも、単純に「そうじゃないだろ!」というのが会田のメッセージなんじゃないか、そんな気もします。でも、それじゃみもふたもないし、「そうじゃないだろ!」の対象を、表面的に、かつ多様な形でなぞっていく、そういうものなのかもしれません。
 でも、では「そうじゃないだろ!」ということが、美術の役割なのかというと、そうでもないような。

 会田誠の「犬」という作品が、一部のフェミニストの逆鱗にふれた、という報道がなされているので、その点についても、コメントしておきます。これは、両手両足を切断された少女が犬のようにかわいく愛想をふりまいている、そんな日本画だと思っていただければかまいません。18禁コーナーに展示してあるこの作品に対し、女性をモノとして扱う不快な作品であり、アートですらなく、こうした作品が公的な美術館に展示されるのは問題であり、撤去してもらいたい、というようなことだったと思います。
 でも、そもそも、18禁コーナーであり、不快に思われる方は見なくていいです、と断っているし。アートですらなくたって、だから撤去すべきものではないと思います。
 もちろん、エロマンガでこうした表現があることは知っていますし、そのエロマンガがアートだと言うつもりもありません。また、そうしたマンガが会田の作品と同様に、人を不快にさせるものだとも思います。
 会田の作品をアートだと仮定すれば、その作品はその表現したものが人を不快にするような社会・文化を背景に成立しているものだと思いますし、そうであればエロマンガとはまったく異なると思います。また、会田はそうしたつもりもあって描いたのだとも思っています。
 ただ、そうしたこととは別に、こうした作品が一部の人の嗜好にあてはまる形で成立しているとも思うし、それが存在するということは、なかったことにはできないと思うのです。そうであれば、なかったことにできないのであれば、それは美術館に、不快に思う人に配慮する前提で、存在してもいいと思うのです。

 政治的には正しくなくても、なかったことにできないものがあると思います。例えば、児童ポルノがそうです。AKB48の河西智美の写真が児童ポルノとして問題だったのは、手でおっぱいをかくしている少年の存在でした。まあ、個人的には、うらやましいと思わないでもないのですが、そもそも少年はおっぱいを触らせられるような行為からは守られるべきです。だから、あの写真はだめだったのです。
 個人的には、いい写真だなあって思うのですけど。
 では、これが実在しない少年だったらどうか。それは問題ないです。というか、児童ポルノから保護されるのは、被写体の人権であって、それが存在しないイラストなどは、問題ないと思います。それを見て不快になる、あるいは少年に悪影響を与えるというのであれば、18禁になるだけのことです。そういった嗜好を持つ人のことを、否定はできません。

 政治的には正しくなくても、なかったことにできないもの、そうしたものは、美術の中から排除されるべきではないし、排除することは、美術であるということを否定するようなものです。

 津田大介の「ウェブで政治を動かす」(朝日新書)は、何だか、昔考えていたことに似ているな、と思いながら読みました。
 ぼくが大学生をしていた30年前、確かにまだ、デモをやっていました。でも、デモの意味は大きく変わっていました。学費値上げ反対とか、あと、なんだっけ。地方都市でデモをすることの意味は、そういった問題があることを周囲に知らせることだったと思います。もっとも、当時の活動家がそう思っていたとは思わないのですが。でも、デモはメディアでした。
 そのことが、ようやく、官邸前のデモで一般化したのかな、というのが、ぼくの考えです。

 「ウェブで政治を動かす」試みっていうのは、これも歴史があります。やっぱり30年近く前かな。粉川哲夫がフリーラジオを提案していました。電波を使って、メッセージを送ることができます。これは、後にミニFM局が簡単にできるようになってきたということにつながっています。
 粉川がまっさきに、インターネットに反応し、モザイクというブラウザを使って、情報発信することを提案していたのは、20年くらい前でしょうか(というか、モザイクって、知ってます?)。
 ブラウザは後に、ネットスケイプナビゲーターからIEやファイアフォックスやグーグルクロームにかわっていくわけです。

 という歴史の先に、誰もが簡単にメッセージを送ることができる社会になったし、その回路は直接政治家にもつながります。そのためのスキルとか、そういうこともあるし、政治家側も利用したいと。
 というか、選挙にあたって、今の公職選挙法のまぬけさというのがそもそもあるわけですが。名前の連呼じゃなく、政策で選ぶべきだし、そのツールが安価で手に入るというのに、という。
 そういうところの延長で、考えたいとも。

 もっとも、だからといって、それで社会がよくなる保証はないし、ネトウヨの声ばかりが大きくなっても困るんですけどね。

 それでもやっぱり、人々が、「大衆」などではなく、名前も顔もある個人として、ネットの中でも存在し、互いにアクセスできる社会というのは、悪くないと思います。

 ニコルソン・ベイカーの「一箱のマッチ」(近代芸術社)を読みました。「もしもし」やぼくがオールタイムベストの1つだと思っている「フェルマータ」の作者。ほんとうにひさしぶりの翻訳です。
 早起きし、マッチで暖炉に火をつけながら、いろいろなことを思い出す。読んでも人生で何のとくにもならない感じは、「もしもし」そのままです。でも、そんなことの積み重ねなのだろうな、とも思います。何だか、それはそれで楽しかったです。あとで使える笑えるネタもたくさんありますし。

 アンナ・カヴァンの「アサイラム・ピース」(国書刊行会)は今、読んでいるところです。「氷」を読んだのは30年前ですか。でも、作品としては「アサイラム・ピース」のが古いのです。「氷」が1967年刊で「アサイラム・ピース」は1940年刊ですから。戦前の小説、ですね。でも、カヴァンのカフカ感というのは、このあたりにあるのか、ということを、あらためて感じています。感想などは、またいずれ。

 あと、最近話題のマンガ、ですか。
 「暗殺教室」、息子の学校では、殺せんせーが話題になっているとか。月を半分くらいふきとばす力を持った謎の生物が、1年後に地球を滅ぼすつもりだが、それまで、ある学校のおちこぼれクラスの担任をしていて、そこで暗殺されれば地球は亡びない、ので殺してね、という話。でも、殺すという物騒なことよりも、そういう気持ちを持たせつつ、生徒にやる気を出させる、ある意味では理想の先生、みたいな話になっていて。
 子どもがこうしたマンガを読んでいると、実在の先生も比べられたりして、しんどいかもしれないな。

 「ハイスコアガール」は、すごくなつかしいゲームがたくさん。でも、プリミティブなラブストーリーのバリエーションなのかな、と。

 「中二病でも恋がしたい」は、あとで知ったのは、五月七日くみん凸守早苗はアニメオリジナルキャラだったとか。それに、ハーレム物ではなく、純愛ものにする、とあらかじめ制作側が考えていたとか。そういうことが、けっこうはまっていたな、とあらためて思っています。そのことで、痛みがもう少し、身体に染み込んでいく、というのかな。
 2012年純愛深夜アニメとしては「あの夏で待ってる」と比較してもいいのではないか、とこっそり思っています。

 では、ハーレム物はというと、「僕は友達が少ないnext」ですか。前シーズンでほぼ関係が固定されたので、その中で安定したコメディをしています。それぞれのキャラにスポットがあたり、エピソードがある。理科にもちょっと美少女になってもらったり。夜空よりも星奈のファンが多いので、きっと夜空には星奈をいじめないで、という見方をする人は多いのだろうな、とか。
 そんなことなのですが、逆に新たな発見とかはないです。難しく考えずに、楽しんでいます。