中沢新一の「日本の大転換」(集英社新書)を読了。
たぶん、エネルギーの専門家からみたらつっこみどころってたくさんあると思う。でも、ぼくは大筋、この本を支持する。つっこもうという人は、中沢が経済の中に贈与を持ち込むということを理解しないんだと思う。
今日も、ある人と話していたのだけれども、自然エネルギーを原子力の代替と考えたら無理がある。社会が中央集権的ではなくなっていくときに、原子力の代替ではなく、自然エネルギーがより価値があるものとして存在する。たぶん。
自然エネルギーは、自然からの贈与としてのエネルギーだ。そこに、原子力のように人間がつくりだしたかのような驕りを持ち込んではいけないのだと、ぼくは思う。
それと、贈与。これは、新しい公共にもつながること。ずっと感じているのは、中沢は資本主義の欠点というようなこととしてとらえていることだけれど、ぼく自身は貨幣の限界ということで感じている。
たぶん、今の貨幣を媒介として、人々が生産し、交換して、経済を活性化していくしくみには、限界があるんだと思う。貨幣の欠点は、お金があるとことにしかお金が集まらないということだ。この単純なしくみが、貧富の差を拡大する。けれども、グローバル市場を活性化させるために、税を下げていくと、所得分配が機能しなくなり、貧富の差を縮めることが難しくなってしまう。
しかし、資本主義はこのことによって、自分の首を絞める。気付くと、お金が一部に集まってしまうことで、市場が縮小し、お金があっても投資対象がなくなってしまう。そのため、ごく一部にお金が集まり、市場が混乱する。金利が低くてもデフレ状況になっていく。意図的に通貨安にしていかないと、経済がもたない。
という中で、あらためて贈与という概念をどのように組み込んでいくのか、ということが、これから考えるべきことなのだと思う。
写真はカイコの幼虫。