こちら葛飾区水元公園前通信813

tenshinokuma2014-02-17

 こんばんはです。
 えーと、今回は宣伝から。
 トーキングヘッズ叢書のNo.57「和風ルネッサンス」が発行されました。今回もまた、ご購読のほど、よろしくお願いいたします。

 なんかもう、1年の12分の1が終わってしまったんですね。早いですね。
 そんな状態で、今年の計画なんかを言うのもどうか、とは思うのですが。今年は、本を3冊計画しています。うち、何冊が現実化するのか、わかりませんが。まあ、それは追って。具体化しなかったら、永遠に謎のままですけれども。

 都知事選は、盛り上がっているんだかどうなんだか、と、まあこれは、選挙が終わったら、書きたいと思います。と書いて、半月、あとで書きます。

 先日、キリンビールの横浜工場に行きました。某中学校の卒親の会主催の大人の遠足というやつです。残念なことに、パッケージのラインは工事中だったので、釜くらいしか見られませんでしたが、おいしい出来立ての一番搾りなどを試飲しました。あとスタウトとラガーか。一緒に行った方々は、スタウトと一番搾りを任意の割合でブレンドしてもらっていました。ハーフアンドハーフというか、クォーターアンドスリークォーターというか。それもまたいいものです。
 ビール工場のあとは、中華街。久しぶりに、ですね。

 さて、ぼく以外はみんな女性だったのですが、何というか、50代ガールズトークにまぜてもらったというか(40代もいたけど)。
 というのはたまたまなのだけれども、中沢けいの「動物園の王子」(新潮社)を読みました。50代高校同級生の3人の女子の物語なのだけれども、これがつまりはガールズトークで。なんか、それが、妙にリアルに感じられてしまって。おもしろかったです。
 50代ともなれば、分別のある立派な大人のはずなのですが、そうであろうとするほど、無理を抱えてしまうのかもしれません。ということは、高校の同窓会なんかでも感じることではありますが。
 どんなもんでしょう?

 ヘルタ・ミュラーの「澱み」(三修社)も読みました。積読だったものです。ミュラーノーベル賞を受賞したあとに邦訳が出た、彼女の最初の短編集です。
 ミュラールーマニア出身の作家ですが、ドイツ系で、現在はベルリン在住。第二次世界大戦時にドイツとして同盟国側にいて、後にチャウシェスク大統領の独裁政権下にいた人々。といっても彼女は戦後生まれなので、第二次世界大戦については父親の記憶になってくるのですが。どっちにしても、ろくなもんじゃない世界で生きてきたという。
 そうした世界で育った、幽霊のような存在として、小説を記述していく、そんな雰囲気です。読んでいて、楽しいものではなく、むしろ息苦しい、そんな作品です。
 でも、そうした息苦しさもまた、作品として残されるべきものとして、そこにあります。だから、ミュラーノーベル賞を受賞しても少しも嬉しそうじゃなかったというのも、分かる気がします。そんな俗世のことはどうでもいい、みたいな。
 そんな作品ですが、おすすめしておきます。

 あとは、小山田浩子の「穴」(新潮社)も読みました。なんか、ファンタジックというか軽くマジックリアリズムした広島県の田舎の暮らしです。でも、そこで専業主婦したり、派遣社員だったりという、それはそれで、なんか行き場が無かったりする気もします。

 都知事選は、舛添要一が当選したというのは、けっこう残念な結果ではありますが、まあ仕方ないかな、とも思っています。
 それに、宇都宮健児の得票数が細川護煕を上回ったのは、良かったかな、とも。
 細川がダメだということではないんです。ただ、脱原発だけは突出して主張されるとき、その他の課題が追いやられてしまうことが、問題だったんです。脱原発という声の大きさが、そのことが支持が広がらない理由だったと思います。
 都民の多くは、脱原発以外にも、さまざまな困難に直面しています。何より、ウソでもいいから景気回復と言って欲しい人はたくさんいました。そうした人の気持ちに、細川の声は届かなかったと思います。

 細川の背後に、小泉純一郎がいたということも、問題だったとは思います。ただ、そのこと以上に、昨年の参院選から、直面する政治的課題は脱原発だけではすまなくなっているのに、脱原発ばかりを声高に主張し、他の思想を捨象したまま、脱原発候補の一本化を求める人たちが、その人たちのしていることが、正義の押し付けのように思われました。
 これは、どうしたって、よく知った人たちを批判してしまうことにもなるので、心苦しいのですが、それでも、行き過ぎたと思っています。
 安倍政権が抱えるリスクは、原発だけにとどまりません。昨年末は、秘密保護法でさんざん盛り上がったのです。ですから、都知事選で秘密保護法ノーをもっと言っても良かったんです。

 脱原発を主張する人の多くは、自家中毒を起こしているのかもしれません。脱原発自然エネルギー拡大、みたいな話はすごくわかりやすいのですが、それは本質的なことではない、ということも、本心ではわかっているはずです。まず、エネルギー消費全体を減らしていくことが必要だし、実際に可能だということです。その方が、コストがかからないということも言えます。ただし、手間はかかるので、なかなかわかりやすく伝えることが、難しいのですが。また、脱原発のあと、原発立地地域をどのように回復させるのかも、課題です。原発のかわりの地域振興といっても、じゃあ、元々なかったところはそのままなのか、とか。
 あと、脱原発というときに、原発関係の労働者のことが、しばしば忘れられます。なんだか、ひどい労働条件、ということは伝わるのですが、具体的にどうしろ、みたいな話がなかなかなされないし、脱原発を主張する人たちも、なかなか労働改善まで要求しません。
 でも、原発周辺の安全を確保していくためにも、労働条件の改善は必要です。労働者との間で意思疎通ができるシステム、何次にもおよぶ孫請けを少しでも少なくするための、直接発注の拡大、発注に際した見積もりにあたって、労働者の社会保険や年金を確実なものにするために、福利厚生費の義務化など、実際にできることはたくさんあります。いずれも、一般的な建設工事の現場で、国土交通省厚生労働省の指導の下でゼネコンやサブコンに実践させている(現実には、なかなかできていないとはいえ)ことなのですが。

 結局、ぼくは宇都宮健児に投票したわけですが、そこでははっきりと弱者の立場に立つということがあったからです。そうした立場からしか、都民の生活を良くすることはできないと思ったからです。
 もっとも、景気回復についても、もっと言っても良かったとも思っています。小泉は「原発がなくても成長できる」と主張していましたが、ぼくに言わせれば、原発が無い方が成長できるのです。原発がすべて停止し、電力需給がひっ迫したことで、どれほどのイノベーションが促進されたのか、よく考えるとわかることです。短期的には電気代は上がったけれども、その分、省エネを進める原動力になっています。
 安心して暮らせる社会が、適切な消費活動をうながし、景気回復につながる、ということももっと言っても良かったと思います。新自由主義の経済のように、お金を富裕層に集めて、積極的な投資と消費を促せば、確かに実体経済は良くなるのでしょう。でも、それは多くの人にとって、実感の伴わない景気回復です。
 実感のない景気拡大というのは、小泉政権下でずっと続いてきたことです。たとえば、非正規雇用を拡大することで、企業は利益を確保してきた、というようなことです。

 それでもまあ、舛添要一安倍晋三にくらべたら、まだまともな人だと思うので、少しはがまんできます。50歩100歩ではありますが。
 というか、安倍晋三そのものが、今のこの国の最大のリスクになっているし、彼に早いところ首相をやめてもらわないと。
 例えば、日中関係や日韓関係の改善には、どうしたって安倍首相の辞任は不可欠です。安倍が何を言ったところで、もはや信用できない人間だというのが、海外の評価なのですから。ほんとうは、マスメディアもそのことを正直に書けばいいのに、とも思うんですけどね。
 もっとも、安倍にかわる人も、自民党内には見当たらないので、これはもうしょうがないですね。
 アベノミクスの賞味期限が切れていることも、以前から書いていると思うのですが、そのことも、もっとみんなで指摘してあげてもいいのですけどね。

 もっとも、成長戦略については、ちょっと難しいところがあります。そもそも、安倍晋三の問題ではないのですが。経済界は雇用の規制緩和を行って、企業が利益を上げやすいような環境にすることで、成長したいという考えが主流です。一方、労働環境そのものを改善していかないと、ぼくたちの暮らしそのものが豊かにならない、というのがぼくの考えです。というか、ブラック企業撲滅、といったところです。後者は成長戦略ではありません。その点は、あまり安易に安倍政権に成長戦略をされても困るということになります。
 もっとも、オルタナティブな成長戦略はあると思います。脱原発イノベーションみたいなものです。

 それはそれとして、ではまた。