こちら葛飾区水元公園前通信931

おはようございます。

調布に越してきて2か月になりますが、なんかもうすっかりなれました。

適応が早いというか。

エレベーターなしの5階というのも、今のところ問題ありません。

毎日、遠くの景色を見ながら、血圧を測っています。

 

って、実は治験に参加しているので、毎朝毎晩血圧と心電図をはかっているのです。心電図をはかるっていうのは、ちょっと変か。

 

今月は一回しか山に行きませんでした。

行った先は、金時山箱根山の一部ですね。

金時っていうのは、もちろん坂田金時。幼名は金太郎ですね。足柄山もこのあたり。

小田原からバスで登山口まで行きます。標高こそ1200mですが、登山口が600mくらいなので、レベルとしては高尾山くらいですね。ちょっと急坂もありますが。

比較的登山者の多い山で、山頂には2軒の茶屋。まさかりーうどんとかあります。

茶屋の裏側には荷物用のロープウェイがあって、便利ですね。

というわけで、なかなかのんびりしたゆる山歩きになりました。

帰りは箱根登山鉄道を利用。スイッチバックがすてきです。アジサイはまだあまり咲いていなかった。今はちょうどいいんじゃないかな。

これから暑くなるので、山はなかなか行きにくくなりそうです。

 

最近、読んだ本からいくつか。

いまさらだけど、花輪和一の「呪詛 封印版」(KADOKAWA)を読みました。比較的短い作品がたくさん収録されていますが、人間の業がこれでもかっていうくらい描かれていて、業のデパートみたいです。しかも、舞台は中世とは限らず、比較的現代に近い時代のものもあって、なんか人間、変わらないよなあ、とも思います。

というか、その変わらなさが、やんわりと政治にも向かうのですが。救いのない日本っていうのも、花輪から見たらこうなるんだろうなあ、と思います。参議院選挙が近いけど、そこになんかあまり期待できないって感じてしまうようなことでしょうか。それも私たちの業が、因果としてめぐっているからなのかもしれません。

 

森達也の「千代田区一番地一号 ラビリンス」(太田出版)も読みました。主役は明仁と美智子、それに憲法第一条をテーマとしたドキュメンタリーの撮影を進めるビデオジャーナリストの克也。退位を控えた天皇明仁と皇后の美智子は、象徴としての存在を模索しつつある、人柄のいい人たち。この二人が皇居の地下の迷宮にもぐるという話だけど、克也とその恋人の桜子が動向することになる。克也はというと、フジテレビでこのドキュメンタリーを作成しようとするのだけれど、テレビ局から中止の要請がくる。

克也は天皇制に賛成をするわけではないけれど、明仁と美智子に対しては、感じられる人柄から、どちらかといえば好きな人たちだと思っている。

明仁は花輪が描くような業は背負っていないけど、象徴というものを背負っている。

テーマは、当事者不在の天皇タブーということ。タブーは自主規制。首都の中心に空白のある日本っていうのかな。

森も指摘しているけれど、日本では天皇制を擁護する一方で、皇室スキャンダルは好まれる。どう考えたらいいんだろうね。

 

 笙野頼子の「発禁小説集」(鳥影者)は、ちょっと話題になっていたので読んだ。笙野の作品はこれまでも読んできたし、なんか異様な迫力は好きではある。とはいえ、笙野が発禁、と。

 笙野は近年は、TPPとか、そういうものをテーマに私小説を書いてきた。TPP反対、種子法反対、まあそうだよな、と思うと同時に、小説でTPPを止める、といった誇大妄想的なところもあって、それはそれで良かった。言ってることは、単純化しすぎるところもあったけど、でもまあ、TPPはダメだよな、とはぼくでも思う。言われるまでもなく、国民を売り飛ばしてきた安部晋三麻生太郎への批判はその通りだと思う。

 でも、笙野によると、発禁というのはそれが原因ではないという、むしろ、性自認を法制度化しようということへの反対を書いたことで、掲載を拒否されたという。

 性自認を自己申告制にすれば、客観的な身体による性別とは異なるため、陰茎があっても女湯に入れてしまうし、そもそもそうなれば女の居場所がなくなる。これに対抗する反女消運動を、笙野は支持しているのだが、それがLGBTQの権利を妨害するものなので、笙野の主張は受け入れられない、ということらしい。しかも、このことによって、笙野は共産党を支持しなくなる。笙野の言う女消運動を支持している男尊左翼には、笙野は裏切られたと思っている。

 女消運動が笙野のいうようなものであったとして、それがフィクションとしてあり、それに翻弄される主人公というのは、私小説としては面白い。というか、狭い視野の中で翻弄される姿というのは痛々しいけれど、小説だと思えばいい。

 でも、私小説であり、笙野は本当に反女消運動を支持していく。選挙では共産党への投票をやめて自民党と書く。笙野が納得する「本当のことを話している国会議員」は山谷えり子であり、田村智子には裏切られたという。福島瑞穂も辻本清美も的だという。学術フェミニズムはすべて敵だという。

 こうしたことの裏側にあるのが、笙野の難病と貧困であるともいえる。笙野は自覚していないが、貧困などに追いつめられる中で、狭い視野がもたらす怪しげな思想にからめとられていったのではないか。その軌跡としてのこの作品がある、そんな気がする。

 こうなっていくと、笙野が「WILL」や「Hanada」に寄稿するようになるのは、割と近いかもしれない。

 なお、性自認、つまり性が自己申告になったからといって、陰茎のある女性が女湯に簡単に入れるとは思わない。豊胸手術をした男性が男湯に入るかどうか、ということと同じだと思う。トイレに関しては、基本は個室なので、実はあまり問題ないとも思っているし、何なら誰でもトイレもある。まあ、女湯に入ろうとした男性がいたという事件は実際にあったけど、排除されている。入れ墨ですら排除されることがあるし、7歳以下は混浴できない現状なのだから、女湯問題は本当に言いがかりだと思う。

 むしろ、笙野の言うような身体によって性を規定し、それを押し付けてしまうことの方がよほど問題だし、そうしてしまうことは退行でしかない。身体をよりどころとして、女性を女性のエリアに入れておこうという自民党の人たちとの相性はいいだろう。という文脈で、笙野は自民党的なものに回収されていくのだろうか。

 笙野は安部も麻生も嫌っているけれど、菅に対してはそれほどではなく、岸田については、安部麻生がいなくなってましになったので、それでいいと思っているのではないだろうか。

 「発禁小説集」は、発禁ではなくきちんと出版されており、講談社が出版を拒んだにすぎない。LGBTQの背後にある性自認のことを否定することが、そのままヘイトになるとは思わないけれども、批判はされるし、講談社もデマを拡散するようなことはしたくはないだろうとは思う。その上で、表現の自由は守られるべきだし、本質的には出版された上で笙野が批判されればいいと思うのだけど。

 

 ということで、参議院議員選挙がはじまりました。

 なんか、憂鬱ではありますが、それでも投票はきちんとしようと思っています。