こんばんは。
まず、業務連絡。
スマホを洗濯してしまいました。おかげで、データがいろいろ消えてしまいました。iCloudを使っていなかったので、復旧できていません。ということで、電話番号はわからなくなってしまいました。まあ、最近はあまり電話をすることがないのですが。
前回、奥多摩むかし道のことを書きましたが、そのあとも2週続けてトレッキングです。
まず、7月18日―19日は尾瀬。この時期に尾瀬に行くのは初めてかもしれません。季節としては、ニッコウキスゲが咲く季節でしょうか。
でも、今回の目的は、アヤメ平に行きたかったということ。人の少ない高層湿原はけっこう好きなんです。でもね、あまり天気に恵まれず、午前中は雨模様でした。そんなわけで木道はすべるし。でも、霧の中の高層湿原はなかなかファンタジックではありました。巨大ナメクジも見たし。
午後は天気も回復しました。ニッコウキスゲはクマに食べられてたくさん咲いているというわけではないのですが。でも、東電小屋方面、網でかこまれたスペースではいっぱいさいていて、それはそれで良かったです。
7月26日には、日光男体山。本当は24日を予定していたのですが、天気に恵まれず。でも、せっかくの4連休、最終日には、ということで行きました。
金町から始発で北千住経由で東武日光へ。そこから二荒山神社までバスですが。いろは坂を上るのが、なんか林間学校を思い出しますね。
やっぱり天気に恵まれず、五合目くらいまでは雨でしたが、そこから先は天気も回復、というより雲を抜けたということでしょうか。
しかし、なかなか体力が必要な山でした。標高差1200mの急坂、しかも半分は岩がごろごろ、その他にもぬかるみ急坂に頂上付近のがればと、力を抜ける場所がほとんどありません。同じ標高差1200mの丹沢の大倉尾根も、うんざりする坂だけど、いちおう山道っぽくなっています。秩父の両神山は鎖場もあるけれどおだやかな道もあって、めりはりがあります。男体山は三合目から四合目にかけての林道以外は、泣きたくなるような急坂で、上りは体力勝負、下りはおそるおそるの下山。
もう二度と登りたくないです。
男体山に登ろうと思ったのは、栃木県にある親の田舎からよく見える山だったから。たしかに円錐形のきれいな形の山ではありますが。
でも、日光に行って良かったのは、帰りのJR日光線。駅舎もきれいだし、車両もちょっと特別な日光仕様で。はい、乗り鉄なので。
乗り鉄といえば、男体山に行かなかった24日には、銚子鉄道に乗ってきました。まあ、そっちは主たる目的ではなかったのですが、西武鉄道を走っていた古い車両で、車窓からはヒマワリ畑、片道わずか12分ですが、楽しかったです。
では主たる目的はなにかというと、銚子にある唯一の銭湯、松の湯に行くことでした。いや、あきれないでくださいって。
ところで、男体山から帰ったあと、銭湯に行ったのですが、その帰りに雨に降られ、かえったとたん、着ていたものをすべて洗濯機に。
このとき、スマホも一緒に洗濯してしまったのです。
まあでも、そろそろ買い替えの時期だったので、いろいろ困ったところもありますが、思ったほどがっかりはしていませんでした。ただ、男体山で撮影した写真がすべて消えてしまったのが、一番残念かもしれません。
LINEは復旧したので、トークは消えてしまったのですが、フレンドの連絡先はあるので。
Insutagramも復旧させたとき、ふと、大学時代の知り合いを検索したら、出てきたので、フォローしました。そのあと、連絡がきたので、少しトーク。亡くなった同級生の話などもききましたが、それでもお互い元気でいることがわかって、それはそれで良かったです。
ジュディス・バトラーの「触発することば」(岩波書店)と「生のあやうさ」(以文社)を読みました。どちらも、新刊では手に入らないし、古書は高いので、図書館で借りたのです。
バトラーについては、難しくてよくわからないなりに、共鳴することがたくさんあって。
ということでまず、「触発することば」ですが、あえて身近な話にすると、ヘイトとポルノ批判に対する批評ということになります。
一方で、暴力としてのヘイトを批判し、他方でポルノグラフィを擁護する。というように切り分けると、わかりやすいかもしれません。そこでは、合衆国憲法における表現の自由が、いかに恣意的に運用されかねないのか、ということも問われてきます。
ここで取り上げられているヘイトは、黒人宅前でのヘイトに対する行政と司法が取り上げられていましたが、日本における朝鮮・韓国人に対するヘイトと相似形なものがあります。
ポルノグラフィに対しては、キャサリン・マッキノンが批判の対象となります。ポルノは女性への暴力なのかどうか。バトラーは反ポルノと考える人はまず、ポルノを読んでみるべきだし、そこにはもっと豊かなものがあるといいます。
たまたま、今期の深夜アニメに「宇崎ちゃんは遊びたい」があります。宇崎ちゃんといえば、昨年、献血ポスターがもぐら叩きにあいました。
でも「宇崎ちゃんは遊びたい」もまた、それなりに豊かな内容くらいはあります。小柄で巨乳でうざい後輩の宇崎ちゃんが主人公です。うざいけれども、彼女なりにいろいろな悩みを抱えているし、巨乳もまた実は悩みでもあります。
今の高齢者であれば、トランジスタグラマとか、そういう言葉を思い出すかもしれませんが。確かに、巨乳を性的表象として消費するということもしばしば行われていることではあるけれども、同時に現実に巨乳の人はいるのだし、それはなかったことにはできない。
ということを、「触発することば」を読みながら思うのでした。
「生のあやうさ」は、9.11以降に書かれたもの。地球上では、わりと簡単に人の命が消費されてしまう。その前後には、例えばかつてのドイツによるユダヤ人殺戮があり、そのユダヤ人によるパレスチナ人の排除がある。ということが、その後「アセンブリ」につながっていく。
ポルノグラフィが豊かだからといって、アラン・ロブ=グリエの「ある感傷的な小説」(水声社)は、やっぱりうんざりする。少女をひたすら虐待し、消費していくというのがその内容なのだけれども。ロブ=グリエの最後の小説であり、感傷的な内面の話だということはわかっていても、げんなりしてしまう。
ヌーボー・ロマンはそれなりに読んだりしているけど、結局のところ、ロブ=グリエが書いていることの意味は、いまだにうまくつかめなくって。
「放課後ていぼう日誌」も見ています。女子高生に釣りをさせるという、ゆるふわ系のアニメですが、釣った魚は食べるということは一貫していて、とても好感が持てます。
そんなこんなで、8月ももう終わります。