こちら葛飾区水元公園前通信899

 こんばんは

 もう11月ですね。なんか、1年が早いですね。

 

 トーキングヘッズ叢書No.80「ウォーク・オン・ザ・ダークサイド」が出ました。今回もぼくも少し書いています。ということで、ご購読のほど、よろしくお願いいたします。

 

 忘年会は無事終了しました。Aさん、すみません、後片付けもせず。でも、日曜日に飲みすぎるのはつらいですね。ひさびさに飲みすぎました。

 

 今月は、9日に、鐘ヶ岳に行ってきました。丹沢の東、厚木市の500m級の低山です。

 山全体が浅間神社。〇丁目っていう石が立っていて、トレッキングの目安になります。これ、大山にもあるのですが、大山よりもずっと低いので、間隔も短いです。

 急坂もなく、のんびりと歩きました。でも、紅葉の季節にはちょっと早かったかな。

 

 今月の本。山口二郎著「民主主義は終わるのか」(岩波新書)。読んでいると、悲しくなります。日本はどれほどまぬけな国になってしまったのだろうか、と。それ以上、なんか言いようがないですね。でも、せっかくなので、読むことをおすすめします。

 

 向井豊昭著「怪道をゆく」(早稲田文学会)。北海道の道を、カーナビにしたがっていくのですが、カーナビは短歌調でナビをしてくれます。どこにもたどりつかない道。北海道がアイヌの土地であったこと、そのことと現在の道が重なりあいながら、やがてどこに行くのか、という。なかなかユニークなテイストです。

 

 「ドナルド・キーンの下町日記」(東京新聞)。7年間の新聞の連載。キーンさんに、日本文化の良さ、現在の醜さを教えてもらう、というのも、なかなかなんですけど。幅広い交流が語られていて、谷崎純一郎から三島由紀夫、安倍公房といった人たちが登場します。文楽への想いも。だから、それを大切にしない橋本への批判も。山口ではないけど、やっぱり日本はキーンさんも憂うように、まぬけな国になってしまいました。

 

 温柔又著「来復の家」(白水社Uブックス)。リービ英雄の本で言及されていた、日本語で書く台湾人作家。その微妙なずれっていうのは、ぼくたちが日常で感じることはないものなのだけれども。台湾人の名前を日本にいる人は日本語読みをするけれど、実は台湾語の発音がある。小学校で自分の名前をローマ字で書きなさいといわれ、台湾語の発音で書くと先生に×をつけられてしまう。結婚のときに、相手の両親が何も問題にしなきゃいいけど。それと、国際結婚はそもそも夫婦別姓。そういったことが語られていく。

 

 三藤利雄著「イノベーションの革新」(ナカニシヤ出版)。知人が薦めていたので。というか三藤さん自身も紹介してもらったので。

 イノベーションについて、その理論に対する批判もふくめ、クリステンセンの論文を中心に紹介し、ビジネスに使えるかどうかを議論。結論は、使える。ぼくはそう思った。ただ、今いる会社にイノベーションがないっていうのがつらいですが。

 

 図子慧著「アンドロギュヌスの皮膚」(河出書房新社)。「愛は、こぼれるqの音色」が面白かったので、これも読んでみました。というか、ツイッターで著者からの推薦もあって。というのも、登場人物と世界がつながっているから。少し厚めの本ですが、一気に読みました。主人公の造形がなかなかいいなって思います。というか、ジェンダー的に、ユニークというか。そういうコンテクストで読んでいくと、おもしろかったというか。

あと、洪水で千住あたりは水没している未来世界なのですが、もう来年あたり水没してもおかしくない現実世界というのが何とも。

 

 ジェシカ・ベンヤミン著「他者の影」(みすず書房)。バトラーに言及されていることもあって、読んでみましたが。フロイト以降の先進分析に対するジェンダー批判なのですが、むずかしくてよくわからなかったです。でも、ベンヤミンは「Oの物語」についての本も書いていて、そっちは興味があるかな。Oがどうして服従を選ぶのか。でもね、絶版だし。

 

 それよりは、ゲイル・サラモン著「身体を引き受ける」(以文社)の方がよくわかる本でした。トランスジェンダーなどをテーマにした本。これもバトラーの影響で書かれているのだけれども。自分自身の身体を生きるっていうのって、どういうことなのか。多様なジェンダーを生きる、引き受けるということ。そのことについて、そのあり方を示している本。

 このジェンダーの話は、あらためてしたいです。

 

 そのバトラーの「分かれ道」を今読んでいるのだけれども。シオニズム批判というテーマで、どうしてバトラーがって思ったのだけれども、バトラー自身がユダヤ人という身体を生きる上で、シオニズムにからめとられないということがそこにはあるみたいで。

 バトラーは「アセンブリ」で身体性、というか行為遂行性をジェンダー以外に拡大していったけど、そこにユダヤ人とパレスチナ人の問題が入ってきた、ということになるのかな。

 でも、そのコンテクストでは、現在において、香港の状況がまさにそれであるといえる。

 そして、温は台湾人という身体を日本で生きている。キーンはその身体を日本に置換していき、日本人の養子を迎える。向井はその身体をもって、アイヌに向かいあう。

 ただ日本だけが、日本人という身体性を持たない、まぬけな存在となっていく。

 そんな現在なのかもしれません。

 

 そんなぼくですが、身体性から遠くははなれたところにいて、身体のない文字だけの存在のような仕事をしてきたというのはあります。

 だからかえって、身体性を持つダム・タイプ展に感じるものがあるのかもしれません。東京都現代美術館、おすすめです。

 

 では、おやすみなさい。

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