こんばんは。
超強力な台風がやってきました。被害にあっていなければいいのですが。うちは、大丈夫でした。江戸川も中川もとりあえず、あふれませんでした。
水元公園の木は少し倒れましたが。
まずは、報告事項。
10月17日に、新刊が出ました。船津寛和さんとの共著で「太陽光発電の「卒FIT」入門」といいます。オーム社から出しました。
まあ、自宅に太陽光発電を設置している人のための本なのですが。書店で手に取ってみていただければ、と思います。
あと、女性セブンから、電気料金についての取材を受けたのですが、それが、女性セブンの10月17日号に掲載されました。といっても、もう次の号が出ているので、書店にはないのですが、どこかで見かけたら、手に取ってみてください。
まず、山の話から。
9月には、厚木市の高松山に行きました。これは、まぬけな話というか、塞翁が馬というか。
実は、松田町の高松山、標高801mに行く予定でした。で、高松山入口バス停への行き方を調べたら、本厚木駅からバス、ということになっていたので、本厚木で下車してバスで。確かに高松山入口というバス停で降りたのですが、そこにある高松山は、標高146mでした。まあ、ちょっとしたハイキングコースではあるんですけどね。
それに、とても美しいオオセンチコガネも見たし、それでいいか、と。七沢温泉まで歩き、お湯につかってきました。
昨年、友人Sと行ったときは、天気が悪く、中止してしまったので、今回はリベンジです。
そこそこ高い山ですが、ルートが2つあり、鳩待峠側と山の鼻側からなのですが、山の鼻側は登り専用ルートで、高低差もあります。でも、前日に山の鼻小屋に一泊しました。
まあ、登っていると、登り専用っていうのはわかります。すべりやすい蛇紋岩が多く、急なところもあるので、下りにくいですね。
でも、森林限界を超えたあたりから、気持ちよく歩けました。霧で麓は見えなかったのですが。高山植物が楽しませてくれました。
まあ、岩の多い山で、山頂も岩のかたまりではあるのですが、それでも落ち着ける場所があるので、両神山よりはましでした。
帰りは鳩待峠側にだらだらと下るのですが、途中の小至仏山が、いわだらけの小さな山頂で、友人Sは迂回していました。ぼくはもちろん、登りました。
そして10月に入り、高松山リベンジ。今度は、松田町の高松山へ。小田急新松田駅からバスで高松山入口へ。そこから標高801mの高松山。さして高くはないのですが、坂が急なので、ちょっと筋肉痛かな。最初は、新東名高速道路の工事現場のわきを歩くので、ちょっと情緒に欠けるのですが、山頂は広々として、富士山がよく見えます。
帰りは新松田駅まで松田山経由で歩いたのですが、途中、どうやらヤマビルにかまれたようです。帰ってから、血が出ているのに気付きました。
10月中には、栃木県の男体山に行こうと思っているのですが、どうなることやら。
釣りも久しぶりに。息子と二人で、いつもの葉山の芝崎へ。
台風が近づいているせいか、波が高く、あまり釣りに適している条件ではなく、実際に釣っている人は少なかったのですが。
でも、今回はイシガキダイを釣ったので、それで満足です。あと、カゴカキダイとカサゴも。そっちはちょっと小さいのですが。いずれも刺身にしました。
11月中にも、もう1回くらい行きたいですね。
本の話をしよう。
9月に読んだ本といえば、まずは山崎雅弘の「歴史戦と思想戦」(集英社新書)です。まあ、タイトルまんまですね。日本会議系の人たちが、歴史感をめぐる思想戦を展開しているけど、それって正しくない歴史じゃないか、という本です。
まあ、これについては、歴史はだいたい山崎の書く通りだとは思うのですが、問題なのは、どう考えても正しくない歴史を、なぜ信じようとするのか、ということでしょうか。
ネット上では、ネトウヨは頭が悪いことになっていますが。
まあ、そのあたりは、ミリ・デザキ監督の「主戦場」というドキュメンタリーを観ると、その感じが強くわかります。杉田水脈とかテキサス親父とかケント・ギルバートとか、なんだかなあ、という人たちの姿を見ることができますから。
ただ、歴史というものは簡単に描き替えられるというのも事実ではあると思う。
以前、原武史の「大正天皇」(岩波新書)を読んだときに、大正天皇が決して頭が悪いわけではなく、身体は弱かったが、人々に近い天皇像を目指していたということを知ったのだけれども。
劇団チョコレートケーキの「治天の君」は、この大正天皇を主人公にした芝居。原武史の本そのままというのはどうかとは思うけれども。大正天皇が葬り去られ、明治天皇だけが語り継がれることで、国家を統治する天皇が復活し、やがて第二次世界大戦に向かって行く。とまあ、そんな内容。
この演劇を今やる意味って、おそらく、大正天皇の姿が今の上皇に重なるっていうところなのかな。ぼくたちは、もう一度、歴史を戻りかねないというところにいるのかもしれない、とは思う。
大事なのは、大正天皇というのが、その記憶が、すでに描き替えられていた現実があるっていうことかな。
だから、歴史戦というけれど、甘く見てはいけない。
前田健太郎の「女性のいない民主主義」(岩波新書)は、おすすめです。
あらためて、今、あたりまえになっている女性参政権が、日本にできて100年とたっていないことを思い出す。いまだに、女性に対する差別はあるし、何より、政治の世界に女性は少ない。こうした不平等な状況でなお、民主主義であるといえるのかな、と。
これは何度でも言うけれど、民主主義といいつつ、民主主義としての欠陥を抱えてきたのが日本の歴史だし、まあそれは海外でも同様ではあるのだけれど、そのことに対する無自覚さは、責められてもしかるべきものだと思う。
辺見庸の「純粋な幸福」(毎日新聞出版)、これを読んでいると、人間って汚物なのか、あるいはいずれ汚物になる存在なのか、そんな汚物であっても、幸福になる資格があるというような、そんな感じの本です。
保坂和志の「読書実録」(河出書房新社)、文章を手で書き写すという、そういう読み方はあるな、とは思ったし、それはそれで見えるもの、感じるものがあるんだろうな、と。ということが、小説としてそこに存在するけれど、だからといってぼくが手で書き写すわけじゃなく、めんどくさいです。で、本を楽しむだけにする、と。
何かを語るのが、難しいですね。
やなせたかしの「アンパンマンの遺書」(岩波現代文庫)は、図書館のリサイクルコーナーでもらってきた本なのだけれど、やなせの自伝っていうのか。文庫化された年に亡くなっているので、あとがきにあるように、本当に遺書になってしまったな。
おもしろいのは、やなせは10歳以下の子どもを対象にした本が書けないという自覚。その年齢の子どもにとって、何がおもしろいのかが、やなせにはわからない。わからないけれど、「アンパンマン」はうけた。実は周囲の大人、というか編集者も、「アンパンマン」がなぜうけるのかよくわかっていない。
昔のアンパンマンは、あんぱんまんであって、ぼろぼろのマントをはおった、とにかく顔を食べさせて元気を出してもらう、そういう地味なヒーローだった。
さらにその前に、大人向けの童話として「あんぱんまん」が書かれていて、それが収録されているのが、「十二の真珠」(サンリオ)。なかなか難しい童話や詩が収録されている。あんぱんまんの顔も今とちがっていて、なんだか普通の顔。
で、やなせのこれらの本を読んで、知りたかったことがひとつある。
アンパンマンはテレビではさいごに、アンパンチでばいきんまんをやっつけて終わるのだけれど、そんな暴力は許されるのか。やなせはどう考えるのだろうか。ヒントはなかったな。
やなせは、「はて、どうしたものか」と思うんだろうな。
あと、やなせの奥さん、アウトドア派で、登山が趣味。やなせがインドア派なのだが、それはそれでうまくいっていたとか。
なぜか、レモン画翠の話も出てくる。これは意外だった。
ということで、おやすみなさい。