こちら葛飾区水元公園前通信885

tenshinokuma2018-11-05

 こんばんは

 今日は告知から。
 トーキングヘッズ叢書の76号が発行されました。今回の特集は「天使/堕天使」です。
 天使といえば、個人的には、時間ができたら続きをプレイしたい「ベヨネッタ」です。いや、主人公の魔女が天使を倒すゲームなんですけど。
 ということはさておき、今回もまた、ご購読のほど、よろしくお願いいたします。

 先日は久しぶりに、栃木県真岡市に行きました。親戚が亡くなったので、葬儀に参列したのですが、場所は真岡市二宮町久下田。東北線水戸線、真岡鐡道と乗り継いでいきます。場所は久下田駅から近くの斎場でした。
 お通夜の翌日、告別式は午後からだったので、午前中は近くを散歩。遠くてなかなか行けていなかったお墓にも行ったし。久下田には久下田城跡があります。せっかくなので、行ってみました。昔は城山公園だったらしく、親戚の叔父さんは子どものころに遠足で行った、とか。途中、醤油醸造所もありましたが。
 城跡はすでに公園跡になっていました。あずまやの跡とか、誰もお参りしないお稲荷さんとか。
 久下田は栃木県真岡市なのですが、城跡は茨城県筑西市になります。そうすると、隣の県由来の史跡を自分のところの予算で整備する、というのは難しかったのかもしれません。
 そこから引き返して道の駅にのみや。いちご情報館もあります。スカイベリーソフトクリームをおいしくいただきました。
 このときの写真もフェイスブックにアップしてあるので、興味のある方はぜひ。

 いまさらですが、村上春樹の短編「石のまくら」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノバ」を読みました。正直、読みやすいけど、たいした話じゃないなぁ、とは思いました。とはいえ、共通するのは、主人公に対して過去が多くの時間を経て現在に戻ってくる、という話です。若いころ一度だけセックスした女性の話、浪人時代に演奏会に招待されたけれど、指定された場所ではやっていなかった話、そして学生時代に架空のレコードのレビューを書いたという話。
 ほぼ70歳くらいになるはずの村上春樹、高齢者になると、過去が現在を追いかけ、追いついてくるのかな、と思ったりもします。そういう見方をすると、それはそれで意味があるのかもしれませんが。

 ニコルソン・ベイカーの「U&I」(白水社)も読みました。ベイカーは好きな作家で、「フェルマータ」はぼくのフェイバリットです。「もしもし」も悪くないけど。
 で、「U&I」は、「もしもし」がヒットする前の、まだ売れない時代の、長編2作目だか3作目。長編というよりはエッセイというべきなのかな。でも、どっちでもいいや。
 話は、ドナルド・バーセルミの訃報から始まります。いや、バーセルミだよ、いきなり。でも、バーセルミは脇役。その追悼文を書くことをきっかけに、ジョン・アップダイクをめぐる思いが語られる、という趣向。
 ベイカーはアップダイクから影響を受けているとはいいます。でも、全部読んでいるわけじゃなく、読んでいないもの、途中で投げ出しているものの方が多いくらい。きちんと読んだのは、現在のベイカーと同じくらいの年齢のときに書いた作品。
 アップダイクを読まないでアップダイクについて書く。その続く言い訳。
 ばかみたいだけど、面白いです。
 翻訳は、ていねいにも、当時の時代背景なんかもわかるように、たくさんの注釈が入っていて。そういや、マドンナのライク・ア・バージンとか、そのころ流行ったんだな、とか。
 それにしても、アップダイクはさんざんな書かれようで、自宅で仕事をしているのをいいことに、近所の奥さんに手を出しまくったとか、いやいや。
 そういや、ぼくはアップダイクを読んだことないな。中学校の国語の教科書の最後にある文学史の年表で、外国文学で最後にくるのが、「走れウサギ」だったっけ。

 そういえば、葬儀の往復の電車の中で読んでいたのが、保坂和志の「ハレルヤ」(新潮社)でした。
 飼っていた猫の花ちゃんが亡くなったあとの、思い出も含めた話です。本としては、とてもシンプルで、「世界を肯定する哲学」にもつながる、亡くなったとしても世界はある、という、そのことへの想いですか。猫への愛もあるんだけど。
 ということで思い出したのだけど、えーと、アインシュタインだったかな。亡くなった友人の奥さん宛に言ったことだったと思う。亡くなったのではなく、彼は彼の時間の中にいるという、そんな感じ。時間は一方的に流れる、って思うかもしれないけれど、時空という概念だと、時間も空間と同じで、人はある時間から別の時間の間に存在している、という。空間がずれているように、時間がずれて存在しているだけなので、先に死ぬ人がいれな、後から死ぬ人もいるけれど、先に死なれて悲しむことではない、という、いかにも物理学者らしい慰め方、だったと思います。
 こうした世界の捉え方って、保坂の考えと近いのかな。

 たまにはビジネス書も読みます。フレデリック・ラルー著「ティール組織」(ダイヤモンド社)は、けっこう売れているようですね。進化型組織についての本。
 人類の発展にしたがって、組織も進化してきていて、ショッカーのように恐怖で支配する組織から、軍隊のような組織、目標を設定して達成していく組織、などなど。それぞれに色があてられています。
 アンバー組織というのは、たぶん日本の組織のほとんどがここに入ると思うのですが、上意下達、変化を好まない軍隊のような安定した組織。とりあえず、トップがいろいろ考えていく、くらいで、部下は考えない。
 そして、日本の会社がこっちに変化しようとしているのが、オレンジ組織。目標達成型。そのために、きちんとマネジメントをし、現場も命令よりも目標達成を考えて動く。ドラッカー的な組織というイメージ。
 その先にあるのがグリーン組織。上司と部下というのはあっても、わりとフラットな組織で、現場が自律的に動くことができる。ミンツバーグなんかが提案しているような組織。アメーバ組織なんかも、こんなイメージなんだろうけれど、京セラがそんな会社になっているというイメージはないですね。現場が自律的に動くことと、フラットなコミュニケーションによる意思決定の速さが、柔軟性をうみだす。
 その先にあるティール組織ですが、信頼による結び付きで、目標なんかも決めない。環境に柔軟に対応し、成果を上げていくという。この本では、パタゴニアが事例として挙げられています。現場がつねに顧客ファーストで動いていればいい、という。たぶん、ワーカーズ・コレクティブとか、訪問看護事業なんかも、こんな形なのでしょう。
 色があてられているのは、ケン・ウィルパーという人が意識の発達レベルにそれぞれ色を割り当てていて、自律的なレベルに達した時に、ティールという色をあてています。
 色はその先もあって、次はターコイズになるのですが、たぶんそれはもう組織ではなく、プラットフォームの上にフリーワーカーが自分らしくはたらくような形になるのだと思います。
 とまあ、進化的組織のティール組織なのですが、販売目標とかなく、信頼関係で動いていく組織というのは、何となく宗教的な気がしないでもありません。とはいえ、否定するつもりはなく、人が互いに信用できるのであれば、はたらきやすい組織になるだろうな、とは思います。
 でも、「ティール組織」が日本でどれだけ売れようと、いまだに日本の組織はオレンジ組織にすらなれないのですから、難しいですね。

 最後に、最近見た演劇について。詳しいレビューは、トーキングヘッズ叢書に書くつもりですが、ここは簡単に。

 タテヨコ企画の「美しい村」は、昭和30年の奥多摩の農村を舞台にした演劇でした。花見のおはぎに毒がまぜられていて、5人が死ぬという無差別殺人事件です。容疑者として逮捕されたのは、旧家の女性(この人は登場しない)で、舞台はその娘と姉(姪と伯母ですね)、それから村人たち。そしてこの事件をめぐる警察と検事、そして弁護士。事件の真相は何なのか、ミズテリーという体裁なのですが、むしろここで明らかにされるのは、日本の村社会。農地解放で旧家が没落したあとの村です。見ていて、村社会って今の日本も変わらないと思いました。日本は人口1億2000万人の村ですね。
 作者も演出家も生まれていない昭和30年、間に帝銀事件名張ぶどう酒事件、森永ヒ素ミルクがはさまり、横溝正史の映画化された作品に影響を受けた作品に、どんなリアリティがあるのかって思うけど、そこにリアリティがあるんだろうな。

 翌日は、「喪服の似合うエレクトラ」の通し上演。これ、3本の芝居なんだけど、続いていて。ユージン・オニール作のクラシック。ギリシャ悲劇を南北戦争時代に置き替えた芝居とでもいえばいいかな。ストーリーは省略。ネットで調べればすぐにわかるので。
 この芝居では、主人公のラウィーニアを、朗読と演技の二人に分けられていたというのが、不思議な演出。でも、そこを仕組んだのが、ドラマトゥルクとしてクレジットされている平辰彦さんの意図、というか、ここでは芝居を、この戯曲に対する批評として演じるという、なかなかトリッキーな舞台。
 朗読するラウィーニアのモノローグとして全体をとらえると、彼女が幽霊によって運命から逃れられないという構造が見えてくる。むしろ、旧家であるマノン家の幽霊によって人生が閉じ込められる、その場所でのモノローグということになる。すべては終わった話として語られる。そういう構造を、平さんの戯曲に対する批評として演じる。という意味では、とても貴重な舞台だったとは思う。
思うけど、4時間も観るのは疲れました。

 ということで、おやすみなさい。